雨がふっていた。
朝から今日は誰もいない。
だいぶ長くなってしまった髪を掻き揚げ上げながら冷蔵庫を開けた。
昨日のコールドサラダの残り。冷たいミルク。
朝食はこれでいい。
そしてお湯を沸かす。
もぐもぐと口を動かしながら思う。
雨は、どこにでも降る。ここにも降っている。だけど私は濡れていない。
それは、屋根があるからだ。濡れないことはすばらしいから、幸せ。
でも、雨に濡れない事が幸せでなかったら、屋根の下に生まれたことは不幸。
幸せと思うものがそうでないものを屋根の下に移したらどうだろうか。
幸せを感じるようになることがあるだろうか。
それとも、いつまでも雨を懐かしむだろうか。
たとえ雨の記憶を無くしても、雨に濡れることでできた自我はそのままだろうか。
それとも、雨の記憶とともに自我も消えていってしまうのだろうか。
別の人間になってしまうのだろうか。
不幸を幸せと感じられるようになるだろうか。
誰かの足音がいつまでも聞こえているような雨だれ。
その足音は、誰かの足音に似ている。
だから私は走ってドアを開けに行きそうになる。
でも私は、それが違うものであることにすぐに気づいてしまう。
だから、浮かしかけた腰をおろす。
そして、ティーバックの安物の紅茶を飲む。
こうやって、静かに誰かを待つことができたなんて、自分でも信じられない。
待っていられるのは信じていられるから。
雨の中に駆け出していかなくても、必ず帰ってきてくれる。
雨が降っていた
こめどころ
私の名は葛城ミサト。
元、国連直属特務機関ネルフ本部作戦部長。
サードインパクトとやらが起こって世界はすっかりその様相を変化させてしまった。
民族主義、国家単位軍を基盤とする近代国家は、完全に運営に破綻を来し、行き詰まり、
支持を失い、国連指導下に主権を大幅に制限された地方公共団体的組織として単なる
行政組織化していった。私達ネルフは、所期の目的であった使徒を全て滅ぼし、ゼーレを
倒し・・・たらしいが、あの時、いったい何が起こったのかを正確に把握するものはもう
どこにもいなかった。事件の全貌は未だに謎。しかしそれを知ったとして今更何の変化も
起きはしないだろう。軍隊組織、秘密組織としてのネルフは、完全に解体された。
人々は散りじりとなり、第3新東京市はそのほとんどが再開発地区となり荒廃した姿を
晒しながら、再び人々が自分を必要とする日を待っている。
私にも色々な道が示された。
だが、私はこの町を離れたくなかった。
四季が戻ってきた。
まるで、この日を待ち構えていたかのように季節はサードインパクトが終ったとたん私たちのそばにいた。
神話によれば、人間は昔、一年中果物がたわわに実り、衣服を纏わ
なくても良い金の世界に住んでいたという。
川には乳が流れ、毎日楽しく歌いながら暮らしていたという。
次に神は一年中夏というのは考えものだといって銀の時代、四季を作ったらしい。
人間は機を織り、物を貯え、家を建てなければならなくなったという・・・。
全て人間の罪業は、この銀の時代に準備されて次の銅の時代を迎える事になる。
その事を考えると私たちはもしかしたら二度目の楽園追放のさなかにいるのかもしれない。
だが私たちは、次に来るものはともあれ、今、力を合わせて復興の時代を生きている。
現在、わたしは第3新東京市の市役所市民生活課に勤務している。
年齢相応の給与を貰い、落ち着いた生活をおくる毎日。お見合いも3回ほどこなした。
当時の同僚も部下も、上司も親友も、寝食を共にしていた子供たちも、たまに連絡を暮れる人、音信不通の人、
いろいろである。ここにいるとそんな人とばったり会う事も多い。
無事を喜び、近況を語りあい、再び別れていく。
そんな毎日の中で、私は生きていた。
ある日、私は住民調査の為暫くぶりに以前住んでいたマンションの近くを歩いていた。
だらだら坂を上がり、公園の側を通ると家を失った人たちの仮設の住宅が並んでいる。
ここにまだ行政の支援は不足している。黄色く色づいたいちょうの葉がひっきりなしに
降り注ぐ中で、子供が歓声を上げて走りまわっていた。
子供はいつでも大人達の救いである。子供がいなければ楽になれると考える人もいるが、
実際に町から子供の声や姿が消えたら如何だろう。自分達がどのくらい子供たちに縋って
生きているか良く分かるに違いない。
人間は未来や希望がなければ生きては行けない。なければでっち上げてでも未来を語ろうとするだろう。
明日こそはいい事があるに違いないと。神がきっと見ていらっしゃると。
子供たちの笑顔には神が宿るというのは、きっとそういう事なんだろうと思う。
私は、暫く子供たちを眺めていた。
私の子供。手を繋いでこの黄色い並木道を歩く私と私の子供。
そして、
「お〜い!! ミサトオようう!!」
私の白昼夢を破ったのは、反対側の歩道にある浮浪者達のテント小屋、ダンボールハウスからの大声だった。
「ミサトウ〜!!」
60過ぎの年配者や、まだ30くらいの若い人まで5,6人がきょろきょろしながら誰かを探している。
私は、道を横切ってその人たちに近づいた。むっと鼻を突く酸えた様な異臭を思い出して慎重に。
ここにいる人たちは人生を投げてしまった人々。何回私たちが職を世話しても続かない。
もう働くという事が嫌になってしまっているのだ。といって施設に収容しても居つかない。
また、ここに戻って来てしまう。私には理解できない世界の人々。
「あのう〜、市役所のもんですが、どうかしましたかあ〜?」
へらへらと愛想笑いをしながら近づく、匂わない程度に。
「なんらあ、市役所のねえちゃんかあ?」
「みさとおが、居なくなっちまったんで探しているんらよ。」
「あいつあ、面倒見てやらんとしんじまうらあ。」
みんなの話を聞くと、ちょっと足りない「みさとお」という男がいて、食べる欲望がない。
自分の身を守ろうとする意欲もないので、放っておくと生きていけない。みんなで面倒を見ているが、
時々いなくなってその辺の見えにくい所に閉じこもってしまうので、死んでしまう前に見つけ出すのが一苦労らしい。
「あちゃー、そりゃあ、難儀な事ねえ。私も手伝うわよ。警察も・・・。」
「警察はだめだぁ、あいつ深く隠れちまう。大体俺らの事なんか本気で探しゃしないよ。」
「その、ミサトオさんの特徴は?」
「そら、簡単だあ。背が高くてな、ミサトオとしかしゃべらん。」
どくん。
心臓が波うった。
どくん。どくん。どくん。
静まれ。あいつは死んだのよ。死んだんだってば。
期待を押さえつける。あれから、もしもとおもって探しつづけた。
だが、私は見つけてしまった。加持を手にかけた人物を。
そして、私は探索をやめ、ネルフを辞めた。
あいつであるわけはない、あいつであるわけは。
だが、私の脚はかってに走り出していた。
「おおい、みんなあ。ここにいたぞお!」
散々探し回ったあげく、私たちは神社の床下でうつ伏せになっているミサトオを見つけた。
脱水症状を起こし、顔が異様なまでに落ち窪んでいる。丸3日間飲まず食わずだったと
いう事だからあたり前かもしれない。私は駆け寄るとその男の顔をじっと見詰めた。
まちがいない、まちがいない。私の加持だ。
「加持。加持よね。」
その男は、ゆっくりと私の顔に手を伸ばした。はっはっと荒い息をしている。
「みずっ!」
私が叫ぶと真っ黒に汚れたやかんが差し出される。私は構わず口をつけてぐいぐいと水を
含むと衰弱しきった、その男のの唇に自分の口を押し当ててて水を流し込んだ。
周りに集まっていた集団からおおっと、声が上がる。
殆どが男の首筋を流れ落ちる。
(「お願い、飲んで!」)
再び口移しで水を含ませる。ごくっと喉が鳴る、安心の為、全身の力が抜ける。
(「ミ・サ・ト」)
男のくちびるから声が零れ落ちる。マックロな垢だらけの顔。
その目は薄皮が張り付いたように濁っている。私を見てはいない。
私がずっと探していた男。加持リョウジ。
身体を抱きしめ、すがり付く私を感情のない目でじっとみている。
私は、加持をマンションまで連れ帰った。
自分の服を脱ぎ、半ば腐ったような加持の服を脱がし、手を繋いで風呂に入る。
ゆっくりと湯船に彼をつける。
ややあって、風呂を出し体を洗い始める。大きな背中を流し、全身を泡塗れにする。
「加持、お願い。元に戻って。加持いい。」
彼の身体を流しながら、私はぼろぼろと泣いた。あの精悍な、気障な加持が見る影もない。
ずっと取ってあった加持の下着とパジャマを着せ、急いで作ったかゆを少しづつ、舐める
ように、ひとさじづつ与えていく。
茶碗半分も食べると、もう加持は頑として口を開けなくなった。
そのまま部屋の隅に這って行くと、膝を抱えてじっと動かなくなった。
私は、毛布を取り出すと一緒に丸まった。
温かい加持の体温。加持の香り。それだけは変わっていなかった。
落ち着きなく腕を動かす。その肩を抱くように毛布と私の身体で加持を温める。
そうやって私はその夜を彼と過ごした。
雨が降っていた。/つづく