その日は、何か感じるものがあった。
「あ・・・。」
唇から声が漏れて、あたしはしゃがみこんだ。
そのまま暫くじっとしていた。
「どうしたの?」
シャワールームから出てきたシンジがタオルで頭を拭きながらいぶかしげに尋ねた。
受胎告知
こめどころ
「アスカ、今日は何限から?」
「3限からだけど・・・今日は休むから。悪いけど独りで行ってくれる?」
「どこか、体調でも悪いの?」
「ううん。なんでもない。ただ休みたいだけ。」
「じゃあ、僕も休もうかな・・・。」
「だめよ。サボりは厳禁。」
ちょっと怖い顔をして私はシンジを睨んだ。理由の無いサボりは厳禁。それが一緒に暮らし出した時の最低の約束。
一緒に暮らしてるから生活が乱れたなんていわれるのは絶対にいやだから。
なによりもシンジが言われるのが何よりいやだった。
女に溺れて成績が落ちたなんていわせない。そんな連中と一緒にされるのは絶対にいや。
「ちぇっ!自分は休むのにさ。」
そんなアタシの気持ちを知ってか知らずか、シンジはしょっちゅうサボろうとする。
まるで勉強嫌いの中学生みたいだ。でもあたしがもう一度ギロッと睨むとしぶしぶ部屋を出ていった。まったくもう。
「アスカーッ!いってきまーっす!」
自転車に乗ったシンジがあたしに手を振った。私はベランダに立ってシンジを見送った。
一緒に暮らし出してから2年余。いつかはこういう日が来るだろうと思っていた。
シンジを見送ったあたしは、風呂場に行き、シャワーを浴びた。お湯と湯気が私を包んだ。
髪を洗い、身体を念入りに洗う。
シンジをいつも受け止めるあたしの身体。
いつもシンジに抱きしめられる私の身体。
柔らかい太陽の香りのするバスタオルで身体を拭く。髪を包み、鏡台の前に座る。
ドライヤーでゆっくりと乾いていくあたしの自慢の髪。
ふかふかになった髪の感触が心地よい。
あたしは立ち上がり、綿シャツををめくりあげ、下腹部をそっとなでた。
おなかにきゅっと力を入れたり緩めたり。
柔らかい。ここは、やってくる天使の褥。
「こんにちは。私があなたのお母さんです。これから一緒に頑張ろうね。」
髪を一つに結わき、下着を付け直し、洗いざらしの綿パンとゆったりした白い木綿のシャツを着る。
黒いキャップをかぶり、外に出る。
いつもシンジと朝の散歩をする道。近所の小学生達がわらわらと黄色い帽子をかぶって小学校へ向かう道。
今日は、子供たちの歓声がとても耳に心地よい。
道の突き当たりにある小学校。そこから子供たちと別れて、椎の木の森が続いている。
冬といっても平均気温20℃を越えるので葉が落ちる事はない。
この森を抜けると芝生公園が延々と続き、だらだら坂を上り切ったところに、私たちの大学がある。
椎の森の葉擦れの音を聴きながら、ゆっくりと一歩一歩、歩いていった。きらきらと木漏れ日が眩しい。
世界が、違うような、雲を踏むような、不思議な感覚を楽しみながら、その日一日、あたしは公園でのんびりと過ごした。
あたしの両親は早くに死んだ。
随分長い事、一人ぼっちだった。必死で勉強して奨学金を受けて大学で学んだ。
そこで、あたしはシンジに巡り合った。
あたしの真っ赤なサイクリング車と、シンジの青いサイクリング車はいつも同じ場所に止められるようになった。
講義室で、ゼミで、図書館で、学生会館で、文化祭の実行委員会で。
あたしとシンジの自転車はいつも寄り添うように止められていた。
ある日、友達の一人が言った。
「アスカとシンジ君の自転車って、とっても仲がいいよね?!」
見るとシンジの頬は真っ赤に染まっていた。
あたしもきっと真っ赤になっていたのに違いない。
シンジとあたしの視線が、シン、とした一瞬に絡み合った。
「ばかなこといわないでよ!」
あたしはもう少しで照れ隠しにそう、大声で叫ぶところだった。
でも、それよりはやく、シンジは赤い顔のまま、私を見詰めて、にっこりと笑った。
あたしも、にっこり笑ってしまっていた。
二人は同時に自転車を振り返った。
まるで、主人達より早く恋人達になったような2人の自転車が、こっちをみつめて肯いているように見えた。
あたしとシンジは、もう一度顔を見合わせると同時に笑い出してしまった。
あきれたように見詰める友人達の中であたしとシンジはいつまでも笑っていたっけ。
大好きなシンジ。
「可愛いアスカ。僕のアスカ。奇麗なアスカ。優しいアスカ。笑っているアスカ。悲しいアスカ。怒ってるアスカ。
微笑むアスカ。すねてるアスカ。泣いているアスカ。ぼうっとしてるアスカ。真剣なアスカ。頑張ってるアスカ。
子供になってるアスカ。甘えているアスカ。走っているアスカ。困っているアスカ。飛びついてくるアスカ。」
「まだまだ。それからそれから?」
「もうかんべんしてくれよ〜。」
「だめよ。シンジが知ってるあたしの分だけ、あたしをあなたに上げるっていう約束でしょ。」
「わかった。意地悪なアスカだな。」
「あはは・・・ん。・・・・。」
桜の花が満開に咲き誇る中。あたしとシンジは初めてキスをした。2年生になったばかりの春。
3年生の夏には籍を入れた。
別に形式は道でもいいと思っていたけれど、シンジに連れて行かれた先が市役所の戸籍係だったときはびっくりしたな。
家に帰るとゼミやサークルの仲間達が待ち構えていてささやかなお祝いをしてくれた。うれしかった。少し泣いちゃったかな。
あれからずいぶん遠いところまで二人でやってきたんだ、と思う。
あの朝から暫くが過ぎて、あたしは今日、独りで病院へ行った。
「おめでとうございます。今、3ヶ月にはいった所ですね。」
にこやかに医者は言った。
私に子供?
赤ちゃんが出来たの?
当然確信はしていたけれど、改めて言われると不思議な気がした。
ずっと天涯孤独だった私に赤ちゃんができた。
(ありがとう、シンジ。ほんとにありがとう。)
そうつぶやくと、同時に、喜んでくれる彼の笑い顔が浮かんだ。
きっとあの人はちょっと驚いてから涙ぐむかもしれない。そしてあの笑顔を顔一杯に浮かべるだろう。
もう、あと2ヶ月で卒業。
就職も決まり、全てが新しく始まる春だ。
全てが。
「受胎告知」終