その日は珍しく起こされないうちに目が醒めた。
ベッドから起き上がりパジャマの上にゆったりしたカーディガンをはおり、部屋を出る。
「おはよう!アスカ!もうすぐ朝ご飯だからね。」
同居しているシンジが私に呼びかけた。
どうしてこいつは朝からこんなに元気なんだろう。
しかも今日は祝日でゆっくり寝ていたっていい日だというのに。
「あれ?」
冷蔵庫を開けたシンジが怪訝な声を上げる。
「アスカ、ここに入れておいたパンを知らない?」
ぎく。
「あ、あのパン・・ね。
夜中起きた時に、お腹が空いたんで食べちゃった。えへへへ。」
シンジの冷たい視線とわたしの後ろめたい視線とが絡み合った。
ま、まずいなあ。
アスカとシンジ「パンを買いに」
こめどころ
「ごめんね、ごめんねシンジ。」
「いいよ。焼き立てパンの方がいいかなって僕も思ってはいたんだ。」
わたしとシンジは朝食のパンを買うために、マンションのある丘の並木道を下っていた。
「それよりも、アスカとこうやってゆっくりこの道を歩くのは久しぶりだね。」
シンジはそういって周りを見回した。
いつも通るこの道だけれど朝は2人で猛スピードで駆け下りて学校へ向かうだけ。
帰りはくたくたになって夕暮れ頃の薄暗くなった坂を足を引き摺るように登る道。
たしかにゆっくりと周囲を見回しながら歩いた事はほとんどない。
ましてシンジと一緒に歩く事は久しかった。
私の名前はアスカ。惣流アスカ・ラングレー。
いまこのマンション「コンフォート」で、3人で暮らしている。
同居人は、今一緒に歩いている碇シンジ。
そして学校の担任でシンジの従兄弟でもある葛城ミサト。
シンジはもともと長野の学校に通っていたんだけれど、両親と、
ある理由から一緒に暮らせない事になってミサトと暮らしている。
ミサト先生は従兄弟って言ってるけど、本当はシンジのお父さんの末の妹だそうだ。
けれど学校で「おばさん」と呼ばれたくない一心で、従兄弟で押し通したみたい。
ミサトはそんなとこちょっと可愛いと思う。
私はアメリカからの留学生で、昨年9月からこの学校に転校してきた。
身元引き受けである担任のミサトのところに行ってみたら、
その少し前から転がり込んでいたシンジ゙と出会ったわけ。
いくら担任の監督下にあるといっても、16歳になったばかりの男女が
一緒に暮らすのはまずいんじゃないかなあと思ったけれど、
シンジの顔を見たとたんそんな心配は消えてしまった。
怯えた子猫のような目。おどおどとした、ミサトの陰に隠れるような態度。
アメリカの「タフな」同級生の男達から見ると何ともひ弱で、
守ってやらないといけないような「男の子」に見えたからだ。
私はシンジのお姉さん代りになった。
どこかへいく時には必ずシンジをひっぱりだした。
シンジは最初、恥ずかしがってどうしても嫌だとか言ってたけど、
一発張り飛ばしてやってからは大人しくついてくるようになったっけね。
・・・・・・「いやだよ。女の子達の中に一人だけ混じっていくなんて。」
「あんた、私の命令がきけないっての?大体女の子と話しただけで、
真っ赤になってるような奴がこの厳しい世界を生き抜いていけるとおもってんの!?」
「余計なお世話だよっ。女の子なんてミサト先生とアスカだけで十分苦労してるよ。
この上なんで遠くまで女の子の面倒見にいかなきゃいけないのさ!」
ばしーっ!
「あんた、私がこんなに心配してやってんのに・・・。」
「シンジ君、あんまりアスカを刺激しない方がいいわよ・・・。
この子、可愛い顔して空手2段の猛者なんだからね。」
「なにいってんのよ!ミサトなんか空手3段、柔道4段、剣道3段、居合い道4段、
・・・これで酒が入ったらほとんど狂犬でしょ!」
「アスカぁ〜、その実力見せてあげましょうか・・・?」
「やるっての。面白いじゃない・・・・。」
「ぐるるるるるる。」
「がうううううう。」
「わかったよーっ!僕行くからケンカしないでくれよーっ!
どうでもいいけど、結局は、後片付け僕がやるんだからね!」
クラスの女の子達と海へいく時の荷物運びとか、見たい映画がある時とか、
・・・・デートの帰りが遅くなった時のお迎えとか。
・・・・・「シンジ!いま駅前だから、迎えにきて!」
「まだ7時じゃないか。一人で帰ってこれるだろ。」
「ひっどーいっ!か弱い女の子一人で帰ってこいっていうの?
途中でライフル突きつけられて、公園の暗がりに引きずり込まれて、
犯罪者に囲まれてレイプされて、ぼろぼろになっちゃって、傷心の美少女が
ガンで頭を打ちぬいて自殺しちゃったりしてもいいって言うのね!」
「ここは日本の平和な田舎町だよっ!銃を突き付けられてなんてどこの国の話だよ!
全部主語がアスカならわかるけどさっ。」
「来ないとかえらないっ。」
「アスカってばぁ〜。」
「いやだっ!あんたが頼まれてきて、どうしてもって言うからデートしてやったんでしょ。
責任とってよ!」
「責任てなんだよー。」
「・・・だから、埋め合わせしてよ。」
「え・・・?」
「・・・・パン屋さんの坂の公園で待ってるからねっ。とっとと来るのよ!」
ガチャン。
文化祭で役がついた時もシンジが一緒なら出るとか条件をつけたなぁ。
シンジは困ってたけど結構上手にやってのけたので驚いた。
「主役の女の子が精神を病んで寝たきりになっているところ。
男の子が入ってきてすがり付いて許しを乞う。」
「どうも、今の配役じゃぴんと来ないのよね。
もっとこうリアリティーというか、情けなーい感じが欲しいのよ。」
「そうは言ってもねえ。なまなかな表現力じゃこの役は務まらないよ。」
「わたしに心あたりがあるんだけどなあ〜。その役にぴったりな奴。」
・・・・「はい!そこで碇くんの台詞。」
「ア、アアアアスカ。僕の事をもう一度見てよ。
ぼくをまたしかってよ。馬鹿って怒ってよ。アスカしかいないんだよ。
僕にはアスカしかいないんだよ。アスカ目を醒まして・・・。」
「うふ〜〜ん。実にいいわね。どう?ヒカリ?」
「どうって言われても・・・。」
「こんな情けない役いやだよ。
第一この台本、なんで女の子の名前が全部アスカって書き換えてあるのさ。」
「ま、リアリティーの追求と、言う事ですかねえ。
この天才脚本家の書く台本に不満でも?」
「なんで白雪姫の王子が、こんな台詞を言わなきゃいけないんだよっ!」
「るさいわね〜。あんまりがたがた言うともっと情けない役を振るわよっ。
寝ている白雪ちゃんがX X X XでX X Xで、ピ---で。
俺って最低だ・・・なんて言う台詞はどう?」
「いあやーっ、碇くん不潔!!不潔不潔不潔っ!!」
「ごっ、ごかいだよ!わかったよ〜、そのままにしてよ〜〜〜!!」
クリスマスも一緒に過ごした。
ラブレターが山のように来て誰かと一緒に行ったら不公平だと思ったからだ。
あいつは、生意気な事に私に小さなプレゼントを用意してくれていた。
プレゼントなんて対等の事をするとはしゃらくさかったけどさ、
せっかくだから貰っておいてやったわ。
「手紙も、プレゼントも全部捨てちゃうんだ。なんか可哀相だね。」
「あんたね、私がラブレター嬉しそうに読んで、デートしたりした方がいいっていうの?
そのほうがうれしい?」
「いや・・。そんなこと。そんなのは・・・いやだけど・・・。」
「さて、ミサも終わったし、ミサトも待ってるだろうから帰ろうか。」
「あの、アスカ?」
「なによ。」
「昨日の朝、僕、変な事言ったなと思って・・。ごめん。」
「いいのよ。どうせどう転んでも誰からも受け取るつもりなんかないし。」
「あの、あのさ。もしよかったらなんだけどさ。・・・僕もアスカにこれ、渡したかったんだ。
いやだったら、捨ててもいいから。」
小さな。赤いリボンの箱。
初めてシンジにもらったもの。
「なによ、それ。」
「いや、あの、単なるプレゼント・・・。クリスマスの。」
「ふん・・・。あんたらしいケチなプレゼントね。でも、まあ、受け取ってあげるわよ。
あんたは私の弟分で、家来で、下僕だからね。
主人に贈り物ってのは、心がけとしてはいいから・・・。」
中には、小さな小さなダイヤのついた細い金のネックレスがあった。
「じゃ、これあげるわ。ま、よく働いたボーナスってとこだけどね。」
ポケットの中で握りしめていた、小さな箱。自分でリボンをかけた箱。
「これ・・・。ありがとう、アスカ。大事にするよ。」
「あー、いいのよいいのよ。たいしたもんじゃないの。
気まぐれでかっておいただけだから。カバンにでもぶら下げて。」
「気まぐれ」で、12時間も商店街やデパートを行ったり来たりして買った、キーホルダー。
飛んでいる小鳥のキーホルダー。
アスカって、飛ぶ鳥っていう意味なんでしょ・・・。
正月に着物を作ってもらった時。
シンジに羽織袴を着せて、耳たぶまで真っ赤になってるあいつを連れて神社に行った。
一緒にお参りして、羽子板を買った。
歩きなれない草履で転んで、歩けなくなった私をあいつは一生懸命背負って帰ってくれた。
苦労を買って出るタイプよね。馬鹿なんだから。
「アスカ、すごいね。みんなが振り返ってるよ。アスカがすごく目立つんだね。
なんか僕まで一緒に見られてるみたいで恥ずかしいや。」
「あったりまえでしょ。この世紀の無敵の美少女が着物姿であるいてんのよ。
見た人は眼福ってもんよ。」
「そんな言葉どこで憶えたの?日本人でも知らない人がいっぱいいると思うよ。」
「そんな言葉くらい知らなくて・・・うわっ!!!いったああ〜〜〜。」
喋りながら歩いていて、思いっきり足を捻って転んでしまった。
「アスカッ!大丈夫?前みて歩かないから・・・。折れてはいないみたいだけど、歩ける?」
「肩、貸して。うっ・・・。このおお・・・。」
「だめだよ。無理したら・・・。こまったなあ。
タクシー代までアスカが全部食べちゃったしなあ。ミサトさんは加持さんと出かけてるし。」
「大丈夫。歩くから・・・。」
「だめだよ、そんなに脂汗かいて。」
シンジはしばらく考えていたが、突然真っ赤になったかと思うと私に背を向けてかがんだ。
「アスカ!」
「え?」
「背負うからっ。早くおぶさって。」
「え?え?」
多分私も真っ赤になっていたに違いない。この気弱なシンジが。
目立つ事が何より嫌いなシンジが。この悪目立ちする私を背負う?
「目立つよ、シンジ。恥ずかしくない?」
「そんなこと!外聞気にしてる時じゃないだろ!
もしひびでも入ってたらどうするんだよ。早くっ!」
私は、おどおどとシンジの背中に手を置いて体を預けた。
「アスカ。首に手を回して。」
「うん、こう?」
軽々とシンジは私を持ち上げた。
ほんとに、軽々と。こいつ、男の子だったんだな。男の子だったんだ。
ゆさゆさと揺れる、シンジの背中。
道行く人が、みんな振りかえる。こそこそと話す人。笑っている人。
シンジにおぶわれている私がショーウインドウのガラスに映る。
頬を染めて、シンジの背中に顔をつけて、揺られている私がいる。
そんな私を背負って、ひとなかを大股で急ぐシンジが映っている。
その顔は、なんか、いつもと違う。大人の、逞しい、男の顔のような気がした。
「シンジ。ありがとう。」
小声で言った。
「・・・うん。」
返事はそれだけ。女心の分からないやつめ、でも。
なんだかとても、
嬉しかった。
そして私は、来週にはアメリカに帰らなくてはならない。
この半年間の事をいろいろ考える。夜になると必ず開くアルバム。
どの写真にもどの写真にも、必ずあいつが隅っこに写っている。
困ったような、心配そうな顔をして、微笑んでいる。
「シンジ、どこのパン屋さんに行くの?」
「人魚姫、がいいとおもうんだけど、朝7時から1時間ごとに焼きたてパンを出すから。」
「最近は公園下の、もきゅう屋も美味しいパンを出してるのよ。
新婚さんが二人でやってるパン屋さんなの。」
「あそこは今赤ちゃんが産まれて臨時休業中だよ。」
「あら、さすがに詳しいわね。」
こういう井戸端情報にシンジが詳しいのは近所の奥さん達と仲良しだからだ。
凝り性のシンジの料理の腕はなかなかのものだ。
奥さん達は密かにシンジのレシピを貰ったりしているらしい。
ちょっと可愛い御近所のアイドルってとこね。変な奴!
「人魚姫」は、結構込んでいた。
もきゅう屋が休みの分こっちに客が片寄ったのだと思う。
真っ赤な看板。パンの香ばしいかおり。木のお盆とパンバサミが渡される。
が、迷ってしまってなかなか決められない。
タマゴパン、ミルクパン、ハニーシュガー、木の実パン。
私の好きなゼンメルパン、渦巻きがぐるぐる回ってる。
フランスパン、ライムギパン、トウモロコシパン。
日本のパンは柔らかくて、甘くて、ふかふかのパンだ。
幸せな日常の味。
焼き立ての食パンや菓子パンたち。笑いながら食べた日々を、ふと思い出す。
「これ買って。これも。このチョコレートのも。あのジャムパンも。」
菓子パンは日本ではじめて知った。
焼き蕎麦パン。コロッケロール。かにパンにメロンパン。カレーパンは傑作だ。
ミルクも買って、袋にいっぱいのパンを抱える。
「ね、今日は私に持たせてくれる?」
「え?いいけど。めずらしいね。」
「なによ!その言い方は。まるでいつもこき使ってるみたいじゃないのよ!」
「だって・・・そのとおりじゃないか。」
「ふん!」
私は、ずかずかと公園の中に入っていった。いい天気だし。
今朝はここの芝生の上で食べようと決めた。
「アスカ知ってる?ここの木は全部桜なんだよ。」
「そうなの?随分地味な木なのね。
桜って有名だからもっとハデハデしいのかと思っていたわ。」
「特に、この木がすごいんだ。この坂の街で、一番大きな桜なんだよ。
散り始めると町中にこの花びらが飛んでいくんだ。」
「見たいなぁ。それが一番の思い出になるかもしれないものね。」
二人の間の会話がそれきり途切れてしまった。
言いたくなかった言葉。思い出。
聞きたくなかった言葉。思い出。
私はシンジの思い出の中だけに住む女の子になるの?
「わたし・・・。わたし・・・、シンジの思い出の中だけに、いるんじゃいやだ・・・。」
「それは・・・ぼくだって。」
私は袋の中からタマゴパンを掴み出すと猛然と食べ始めた。
シンジは、コロッケパンを食べ始めた。あっというまに食べ終わると次はカレーパン。
「ふぉれ、わはひのだよ!」
「はあいもほかひらよ!」
抗議したけどシンジはそれも口の中に押し込んでしまった。
わたしはポテトパンに手を伸ばした。
どんどんと胸を叩いて、慌てて1リットルパックの牛乳を開けてごくごくと飲む。
それを横から引った繰ってシンジが飲み干す。
「げほげほげほ!」
「ばあか、こんなにムセるまで!」
シンジの背中をどんどんと叩く。
頭を下げて咳き込んでいたシンジが、顔を横に上げてわたしの顔を見た。
じっとみつめている。
私も目をそらさずに、シンジを見た。
「帰らなきゃ行けないの?アスカ。」
どくん。
「どうしても。」
どくん!
私は、シンジの顔を見ていられなかった。シンジに見ていられたくなかった。
もう、がまんできないよ。どうしよう・・・。
食パンの袋を破くと、その一枚をシンジの顔にギュッと押し付けた。
「みないで!シンジ、わたしの顔、見ないで!」
口から出た声はもう涙声だった。熱いものが目から一度にあふれた。
ばか!こんな奴にわたしの泣き顔を見られてたまるもんか!たまるもんか!
シンジは、食パンの口の部分を毟り取った。
「アスカッ!聞いてっ!僕は!」
「だめっ!言っちゃだめっ!」
「なぜっ?!」
「言ったら、言ったら、わたし、わたし、帰れなくなっちゃう。
ほんとに帰れなくなっちゃうもの。このままシンジと。いっ・・・。」
声が、かすれて、言葉にならなかった。かすれるのにかまわずわたしは叫んだ。
「なんで!なんでこんな遠いところにいたのよ!どうしてっ!」
こんな、極東の島国になんでシンジは住んでるの?どうして近くに住んでいないの?
私はシンジに抱き着いて押し倒した。
顔に食パンを押し付けたまま、シンジのくちびるに私のくちびるを重ねた。
食パン男の手が、腕が、私を強く抱きしめた。
「迎えに行くから。きっと待っててくれる?」
「うん、うん!待ってる。私かならず待ってるからね。」
食パンが、シンジの顔からぽろりと落ちた。
シンジの優しい笑顔が現れた。
どうして?情けない奴だったのに。私がずっと面倒見てきたのに。
いつのまにこんなに男の子になっちゃったの?
いつのまに私の中でこんなに大きくなっちゃったの?
目線を合わせられないほど恥ずかしくて、指先だけをつないで私達はマンションに向かった。
残りのパンの袋を抱え、部屋に戻る。
起き出して来ていたミサトが振り返った。
そして、ドアを開けて入ってきた私達を見るなり、びっくりして目を真ん丸にした。
「どうしたの一体・・・。パンで殴り合いでもしたの?」
私たちはお互いの顔を見た。パンの粉をかぶったようになっていた。
髪の毛もセーターもパン屑だらけ。背中もズボンもスカートも芝生だらけ。
「あはは。何そのカッコは。」
「アスカこそ、ひどいかっこだよ。パン屑を蒔いた小鳥の餌台みたいだよ。」
私たちは大きな声で笑い出した。
笑っているうちにまた涙がこぼれてきた。シンジも袖で目をごしごしこすった。
私達はまだ高校生。先の事は分からない。でも今のこの気持ちは嘘じゃない。
私たちは必ずまた巡り合う。必ず。
私とシンジは、ぎゅっと手を握り合った。
「約束だよ!」
アスカとシンジ「パンを買いに」終
Jun/21/2000