
雪の中の約束
こめどころ
「う〜〜〜〜〜。寒い寒い寒い寒い寒い寒い〜〜〜〜〜。」
「ほら、アスカこれ。甘い紅茶にブランデーが入ってるからね。」
アスカはがたがた震えながら僕からホウロウ引きのカップを受け取った。
ふーふーと吹き冷ましながら、少しづつ飲むと僅かながら身体が暖まってくる。
二人はニューヨークからブエノスアイレス経由でシドニーへ向かう途中だった。
その途中で事故に遭い、高い山中に不時着したのだった。パイロットは重症。
シンジとアスカは保温用のアルミホイルを機長に使い、外れた椅子で周囲を囲った。
容赦なく雪と風が吹き込んでくる。
自動救難信号がたっぷり16時間は流されつづけたが、何の反応もなかった。
外は3日間ずっと激しい吹雪が続き、荷物の回収もできない。
3日目の夜。機長が亡くなった時、二人は救援をあきらめた。
アスカの主張にしたがって次の朝、山を自力で下ることにした。
アスカの金色の髪に、息が凍り付き白く細い樹氷のようになり、顔の産毛にもうっすらと
細かい氷が粉を吹いたように付着している。
空気中の水蒸気が凍ってキラキラと輝き美しいがそんな物を鑑賞している暇も余裕も
二人にはなかった。
甘い紅茶は1分もしないうちに湯気が立たないほどに冷めてゲル状になり、3分もすると
凍り付いてしまう。
異常な程の寒さ。そして雪は深い。
アスカの体力は急速に奪われ、1kmも移動しないうちに動けなくなった。
どちらにしろこんなに雪が深いとは、完全な誤算だった。
1時間のラッセルで100mも進まない。ラッセルを一時間もやれば次には30分は動けない。
アスカは、シンジに対する意地もあって、自分も先頭に立つといってきかなかった。
しかし15分も進むと、アスカは雪に中に崩れ落ちた。激しい汗は止まった瞬間から猛烈に
体温と体力を奪う。体温が下がるとまともに思考が動かなくなり、バランスが崩れて、
さっきまで背負っていた荷を背負えなくなる。もともと登山用の装備を持っているわけでも
ないから、移動はやはり無理だったのだと、シンジは唇をかむ。
まだ雪に今迄の道が消されないうちにと、飛行機の残骸に向かって引き返すことにした。
だが半分も動けないうちに日が暮れた。大きな岩が張り出している下に移動した。
高度を上げずに等高線に沿った移動なら少しは楽だった。
飛行機の機体から自作したアイゼンもこの辺が限界だった。
倒れ伏したアスカの荷物を置き、コッヘルで雪を溶かし、アスカに甘い紅茶を与えた。
その後シンジは岩の下でアスカを横たえ、風の吹いてくる方向に雪を積み上げる。
いくらかでもアスカに風が当たらないようにするためだ。
そして少しずつ他の壁を作り、ビバーグの準備をはじめた。
シンジが最後の一面を積み上げ火を少し強くすると、雪室の中は、一気に温度が上がった。
かろうじて二人が横になれる程度のスペースだったが温かいだけましだった。
断熱用のアルミシートを敷き詰め、装備を降ろす。アスカはしきりと水を欲しがる。
体力が消耗している証拠だ。コッヘルで雪を溶かし、温かいうちにそれを飲ませる。
自分は少量の雪を口の中でゆっくりと溶かす。一気に溶かせば熱を体内から奪われ体力を
消耗する。喉の渇きをこらえ、少しづつ飲み下した。
(「アスカがこんなに体力消耗と突発事態に弱かったなんて、意外だな・・・。」)
しかし考えれば、アスカは常にたっぷりとした後方からの支援と、完全なバックアップの下で
しか、戦った事がない。自分は一人だと言う意識とは相反して、アスカの武装、攻撃体制は
「過保護」そのものである。
肉体自体を楯にしたりはしない。血反吐を吐くまで行軍したりするわけもない。
そうであれば、エヴァンゲリオンと言う巨大兵器がなければこの娘は只の女の子と同様だ。
その時、どろどろと言う、低い音が二人の耳に届いた。
きゅうきゅうと周囲の雪のきしむ音が周り中から伝わってくる。雪崩だ。
この寒さと急なスロープで雪崩が起きるとすれば、普通は表層雪崩だが、この地の底から響
いてくるような振動と地鳴りは・・。
深層雪崩・・。雪自体の重さに雪壁が耐えられなくなって、一気に崩れ落ちはじめたに違いない。
爆発的なエネルギーからは、逃れようがない。軋みはますます激しくなり、雪達は、
まるで悲鳴を上げるようにきーきーと叫び、激しい低周波を伴う爆音がみるみる近づいてくる。
「し、シンジ -------。い、いやあ。」
「アスカッ。こっちへ来てっ。」
どすん!
飛びつくようにして抱き着いてきたアスカを抱えて岩面の一番奥に飛び込んだのと、
どっと雪が壁面を突き抜けるように覆い被さってきたのが同時だった。
爆発的な、鼓膜が破れそうな音、衝撃、雪、振動。
何も見えず、ただシンジの耳にはアスカの甲高い叫び声が聞こえるだけ。
それに対してしっかりと固くアスカの華奢な身体を、頭を抱きしめ、自分の体を使って守ろうと
岩の隙間に彼女を押しつける。
ほんの僅かな、紙一重の場所を横を怒涛のごとく土砂が通り過ぎているのだ。
「きゃあああああーーーっ、シンジ!シンジ!シンジ!」
「だいじょうぶっ!頑張るんだ! アスカ!」
永遠とも思える時間が過ぎた・・・。二人は雪のカプセルに包まれていた。雪の中は意外と暗い。
かろうじて動く方の手でアスカの顔の雪を払うと、瞼が開き、青い瞳が揺らめいた。
「シン・・・ジ・・・。」
「大丈夫、僕らは生きている・・・。アスカ。」
「怖かった、怖かったようシンジ!飛行機が落ちる時より怖かったよう。」
ぼろぼろと涙をこぼして腕の中で泣きじゃくるアスカは、まるで幼い子供のように見えた。
アスカは女の子なんだ・・。幸いにして岩の屋根が二人をしっかりと守ってくれていた。
飛行機の厨房から持ち出してきた小さな木のスコップのような物。
何に使うのか分からないが、雪かきにはえらく重宝している。
かろうじて手繰り寄せていたナップの中からそれを取り出して雪をかき分けて外へ出ることができた。
さっきよりはよほどしっかりした石混じりの雪壁ができている。
飛行機から持ち出してきた物には、発見の為にマーキングがしてある。
携帯にしくまれている位置探査のボタンを押すと意外と近くに埋もれていた。
ランタンと食料、リュック、毛布、断熱アルミシートパックなどを丸ごと確保できた。
二人の服のなかには、多くの雪が潜り込んで来ていた。
それが次第に溶けて服を濡らしていく。体温を奪う。最低限の物を確保して、ビバーク穴に戻る。
青い顔をして、アスカはぐったりとしている。呼んでも揺すっても起きない。
パイロットジャンパーと厚地のネルシャツを脱がせようと、ゆっくりボタンを外していく。ボタンを
はずすたびに雪の塊が零れ落ちる。
途中でアスカは突然目を開き、真っ青な顔をしてシンジを突き飛ばし、胸を押さえて隅で小さく丸くなった。
「いや!」
いつものアスカからは考えられない、細くて弱々しい拒絶の声。
「アスカ。大丈夫。気が付いたならネルシャツを脱いで。もう温かいのに濡れた物を着ていてはいけないよ。」
霞んでいた目に正気のこころが蘇り、固くなっていたアスカがほーっと息を吐く。
やっと状況が把握できたようだ。ネルシャツを脱ぎ、きちんと畳んでシンジにおどおどと差し出した。
受け取ったシンジは重ねて言った。
「下も、そんなに濡れてるよ。この毛布で包んであげるから全部脱いで乾かしてしまおう。
後がつらいから。ね。」
「え・・・・。だって、そんなこと・・・。」
じっと見詰めるシンジの目に逆らいきれず、アスカはズボンも脱いだ。
靴も脱いだ。白い足と下着がむき出しになって恥ずかしい。
シンジがかまわずアスカに手を伸ばし抱え込むようにして、毛布を被せる。温かい。
「十分温かい?濡れたものは全部替えた方がいいよ。」
疲れの余り、抵抗する気力が失せている。泥のように眠気がまとわりついてくる。
うとうとしながらいわれた通り全部を脱ぐ。
シンジが頭から大きな毛布で首から胸元までぴったりとくるんでくれた。
にっこり笑っているシンジにやっと微笑み掛けることができた。
目線で礼を言う。アスカの精一杯の感謝の気持ち。
疲れて、かじかんで、半ば感覚のなくなっていた足の指をシンジが必死で揉み解し、さすってくれてる。
血流が回復し、つま先がほかほかとしてくる。おそろしいくらい気持ちがよい。
もうどこも寒いところはない。
シンジはアスカの指から脛、脛から大腿部まで、小さ目の乾いたタオルで、ごしごしと擦っていく。
顔から火が出るほど恥ずかしいが、いわれた通り足を開き身体を任せる。
その後にはまた、ぽかぽかと体温が上がる。これでもう、凍傷の心配はない。
「シンジありがと・・・・。・・・ねえ。寒かったらあんたも一緒に、ねよ・・・。」
「うん、もう少し室温が上がったらね、そうさせてもらうよ。」
そこまでいうとアスカは眠りの世界に引きずり込まれていった。
シンジは次にアスカの手を擦り始めていた。
胸元から差し出された白い華奢な手を、シンジは擦りつづける。
ふと目を上げると、アスカは心地よげに小さな寝息を立てていた。
もう大丈夫だ。シンジはやっと安堵した。ほっとしたとたんに背中がずきずきとうずき、指が痛む。
アスカを庇った時に飛び込んできたガラ場の石が背中に何回も当たった。そのための打撲だろう。
指は、おそらく凍傷。もみながら寝ればなんとかなりそうだ。
ランタンの燃料と夜明けまでの時間を計算し、シンジも濡れた服を脱いだ。
そして、自分の毛布のなかにアスカを抱え込むようにして目を閉じた。柔らかくていい香りがする。
小柄なアスカを抱えて、痛みも疲れも感じている暇はなく、たちまち眠り込んでしまった。
アスカは一瞬自分がどこにいるのかよく分からなかった。後ろから誰かに抱きかかえられている。
温かい毛布の中で寝返りをうつと、目の前にシンジがいた。
びっくりする。が、次第に記憶が甦ってくる。
昨夜の恐怖が甦るが、今は静かだ。
起き上がって、自分が裸なのに気付き、慌てて胸元をかき寄せる。
最初は完全に毛布に包まれていたらしいが、目が醒めた時はシンジと直接肌を合わせていた。
途中で暑くなって転がり出そうになったのをシンジが抱き留めていたのに違いない。
シンジの腕が白いのは、自分をずっと腕枕状態で抱え込んでいた為だろう。
(「背中が暖かかった。ありがとう、シンジ。」)
情けないと思ってばかりいたこの男の子が、今は頼もしく思える。
昨日からの自分の錯乱状態を思い出すと顔から火が出そうだった。
弱っていた自分をその時しっかり守ってくれた事が嬉しかった。
アスカはまだ眠っているシンジの顔に自分の顔を寄せた。
いつもなら考えられないような愛おしさが込み上げてくる。目を薄く閉じて口唇を寄せていく。
「いいよね・・・これはお礼だもの。私を助けてくれたお礼だもの。」
自分に言いわけをしながらゆっくりと口唇を寄せて行ったアスカは、はっとして目を見開いた。
シンジの頬に異様な熱気を感じたのだ。
「ちょ、ちょっと。シンジ。シンジッ!ちょっと!しっかりしなさいっ。目を開けてっ!!」
額に手を当てると、そこは燃えるように熱かった。シンジの毛布をめくる。
ランニングとパンツだけの姿に思わず顔が赤くなるが、そんな事を言っている場合ではない。
シンジの身体を裏返すと、ランニングシャツの背中一面が真っ赤に染まってひどい熱を持っている。
そのシャツをめくり上げると、ひどい裂傷が背中の数箇所にあった。
自分を抱きしめて雪崩から守ってくれた時、ガラ場の鋭い砕石に切り裂かれたに違いない。
その中でも傷の深い何個所からは、いまだにじくじくと出血が続いている。
確認すると、かなり深い。石片が食い込んだままの傷もある。
「シンジ、シンジッ。しっかりして!あんたなんで言わなかったのよ。私のことばかり庇って、
馬鹿じゃないのあんたっ!!」
「ご、ごめんアスカ・・・自分の背中って見えないから・・・たいした事じゃないと思ってたら、
結構ひどかったみたいだ。はは。」
アスカは身を翻して、救急箱を開いた。
最低限の抗生物質などが入って入るが、この状態ではまるで足りない。
もてる医学知識を総動員して、広域ペニシリンのバイアルから薬液を吸い上げ、半分をIV。
局部に半分を投じた。
石を取り出さないと・・・続けて、深い傷を縫わなければ。
急いで服を身につけると、外に出る。
大分先にあったSTOLの残骸と荷物カーゴがすぐ近くまで押し出されて来ていた。
鍵を拳銃で破壊する。かなりの機材が残ってはいたが、肝心の麻酔薬がない。
「シンジ、痛いけど我慢してね。すぐ終わるからねっ。」
アスカは最低限のメスを背中に入れることを決意した。麻酔は、ない。シンジは肯いた。
「お手柔らかにね。」
「これ、噛んでて。私の帽子を糸でぐるぐる巻きにしたの。」
「わかった。」
「いくわよ。」
完全滅菌のメスセットを破り、背中に沿って傷を開く。ピンセットを傷口に突っ込み破片を取り出す。
筋肉が巻き付いて、なかなか抜けない。
「う、うわああぁぁっ、ぐぐっ、つつつ・・。」
額から噴き出す汗。必死で耐えるシンジ。アスカも必死だ。もう一度切開を繰り返す。
そしてピンセットで摘み上げ、揺さぶって抜き出す。
「ああああつうううっ!!ぐ、ぎいっぎぎぎい。」
「シンジッ取れたよ!あとは縫うだけだから、あと3針、ね。がんばって。」
半月形の針をピンセットで挟んで、深い傷を応急に縫いあわせる。
シロウトにしてはしっかりと縫い付けたが、医師のように層毎に縫ったわけではない。
下に降りたら再手術をしなければならないだろう。
内臓の打撲も必ずあるだろう。気を失ったシンジに更に注射をし、簡易点滴を施す。
密閉シートを貼り付ける。これで3日ほどは傷口の一切開封の必要はない。
しかし、6時間後になっても熱が下がらない。
何らかの感染を起こしたのだろうか。呼吸が険しくなっている。吐瀉物に血が混じっている。
こんな高山で何故感染を起こしたのだろう。
次の日の朝、最初の遭難の日から7日目。シンジの様子はゆっくりと悪化して行く。
アスカはいらいらしながら治療を続けた。その日、アスカはカーゴの奥からスキーを発見した。
「これ、スキーだわ。シドニーに着いたらミサト達と合流してスキーに行くつもりだったっけ。」
そのスキーをじっと見詰めていたアスカはある決意に達した。
このままではシンジはどうなるかわからない。
よくなる可能性もある。だが悪い目が出た時は、敗血症を引き起こしかねない。
そうなってしまったらどうしようもない。シンジは・・・。それを見続けることは自分にはできない。
「シンジ、あたし、山を下って助けを呼んでくる。戻ってくるまで待っていて。」
「ぁ、アスカだめだよ。危ない・・・。ここにいてもいつかは必ず見つけてもらえる。
あの上空の雲さえ晴れれば衛星から・・・。」
「シンジ、飛行機の計器の異常、通信の途絶状況から見て、この周辺は何らかの理由で
ひどい磁気異常が起こっているんだと思う。
このまま待っていても通信は回復しないし衛星からの発見も、冬期の高山では期待できないと思う。
行くしかないのよ。」
アスカはカーゴから引っ張り出したスキースーツに身を固めている。
シンジに笑い掛けるアスカの顔はもうガンとして動かせない時の顔だ。
「まかせて。あたしはこれでもアルペンスキーは得意なのよ。」
ナップサックと、ライフルを背中にしょって、アスカはゴーグルを降ろす。
シンジはもう引き止められないことを知っていた。
「アスカ、気をつけて。」
「わかってるって。」
それから、二人は唇に触れるか触れないかのようなキスをした。
「続きは・・・・帰って来てからしてあげる。がんばんのよ!!」
「アスカ。今、言っておくことがあるんだ。」
思わずどきりとする。
「だめよ!!帰ってからなんだから!!」
アスカは曇天をついて滑降を開始した。
小型の通信機を背負いスーパーイリジウム衛星携帯電話を装備している。
通信可能域まで移動して連絡をとる計画だ。これなら、この地点から離れさえすれば連絡が可能である。
無理に、完全な下山をする必要がない。
ここの植物相から見て、高度は4000m近いだろう。
さらに1000m近く降りて、やっと這い松林が散見されるようになるはずだ。
しかし緯度によって変動する物でもあるし高度が下がればまずは人里がある可能性もある。
そこでは電波障害があれば何らかの手が打たれているだろう。
そこにつくまでに連絡可能域にたどり着けるならそれもよし。
ざざぁっ!!ざっ。
巨大な地溝が口を開けている前でかろうじて止まる。右か、左か。
アスカはためらわずに向かい風の方にコースを取った。
海岸が近ければ吹き上げの風があるという計算だ。
また、下からの風があれば僅かでも雪庇を踏み抜く可能性が低くなる。
標高は不明だが森林限界はかなり低いのかもしれない。かなり下っているのにまだ植物が現れない。
雪は相変わらずのパウダーで雪煙に包まれ、真っ白になりながらアスカは滑走を続けた。
小さなクレパスを幾つか飛び越える。通過した途端に崩れ落ちる雪庇。アイスバーンで転倒。
雪が次第に深くなっていく。稜線の手前の吹きだまり部分らしい。
スキーがどんどん潜っていく、このへんで一旦止まってしまうと再滑走が困難になりかねない。
すでに深さは腰に近い。スピードを殺さないように雪の浅い場所まで何とかいくには稜線を一旦
越えなければならないが手前にガラ場が続けば一旦ラッセルの必要もあるかもしれない。
今は上手い具合にまた雪が少なくなり始めた。足の裏からジャリ感が伝わってくる。荒目だ。
一旦溶けた物が再結晶した場所か、あるいは水の流れのある場所か。
スキーのスピードが殺されるが、ここを下った方が再滑走がしやすい。
ここを真っ直ぐに降りていくことにする。
さらに20分ほど下るとガスが出てきた濃密なミルクのようなガスである。
視界が完全に利かなくなるまでにガスの外側を回り込んでも、
一段下に見える森に駆け込めれば、天候が変化しても対応できる。
その向うは相変わらず厚い雲に蓋われ遠方の視界を遮っている。
「あっ!!」
次の瞬間、アスカの身体が宙に跳ねた。
右のスキーの下に岩が隠れていたのだ。かろうじて体勢を整えて、バランスをとって着地する。
「ひゅううっ。危なかった!」
と思ったとたんもう一度跳ねた。
今度は衝撃が大きすぎる。片足で着地したまま、崩れて地に転がった。
とっさに受け身をとって、足を叩き付ける。
スキーは上手く外れた。
雪煙のなか、転がりながら顔の両側を上腕で庇う。もう一個所の岩端が脇腹を強く打った。
「ぐっ!!」
ひゅうううっ。真っ白な煙を山肌を吹き降ろしてきた風が払うと、赤いスキースーツがむくりと起き上がった。
身体を引きずるようにしてスキーを探し、足につける。ストックにすがるようにして立ち上がる。
バイザーは飛ばされてしまったのか見つからない。雪煙が風が吹くたびに舞い上がる。
突風が吹いた。長い金髪がなびく。
赤い糸のような血の筋が額を飾っている。視野を遮っていた雪が切れた。
「はっ!」
再び滑降が開始された。目標の森はもうすぐだ。雪の中にほんの僅かな岩端が見える、
それを巧みに避け、飛び越え、森を目指す。
森の手前からは急速に台地が沈み込んでいく。
アスカの思惑とは違って、森は見上げるような位置にある。
反対側からも山肌が迫ってくる。まずい。U字型の地溝に入り込んでしまったようだ。
その替わり、風もない。雪もない。静かな世界である。途中からは完全な森林地帯になった。
太い樺が続いた後、そこは愕くべき物が見えていた。
そのとき、森の陰から急に、白い大きな輝きがアスカの目の前を遮った。スキーを止める。
「そんな・・・。そんな・・・。」
アスカの目の前に立ちふさがったのは、巨大な氷壁であった。
右側の山壁からまるでうねり出すように稜線を覆い目の前を遮ってほとんど垂直に立っている。
「なんなのこれは・・・・。」
いかにも不自然な氷壁であった。水の流れのある場所ではない。
何か凄まじい熱源が通り過ぎて、一旦溶けて水となったものが再氷結としか思えない。
よく見ると頂付近から手前の森林部は樹端がない。
なぎ倒されたか、燃えてしまったのか。氷壁が続く先は、アスカとシンジが遭難して助けを
待っていた方向に一致しているように思える。
「これが・・・原因?強烈な熱を伴った、高磁力な何か。隕石か、超磁力兵器か・・・。」
それがここを通り過ぎて落下していったに違いない。その熱で溢れた水がこの氷壁を形成したのだ。
そして落下現場一帯を強力な磁場で包んだのだろう。計器を狂わせSTOLを落下させ・・。
「と、いう事は、これをよじ登って逆心すれば最短距離で通信途絶地区から抜け出せるというわけね。」
しかし、今の自分には何の装備もない。
ピッケル一つ、デッパアイゼン一つない。ハーケンもカラビナも・・。あるのは・・・、この身体一つ。
何かの為に持ってきた簡単な工具。
補助装備の緊急脱出セット。これが何になるだろう。何の役にも立ちはしない。
それでも装備を念入りに調べ、スキーリュックの皮部分を慎重に切り取ってベルト型にして腰に巻きつける。
使えそうな工具を腰に差し込む。
手にも皮を巻き付ける。基本的には素手のアイスクライミングを行わざるを得ない。
氷壁は岩6氷4といった構成だ。
スキーブーツはできるだけばらし、中履きだけになる。指と土踏まずにも皮を巻き付ける。
スキーを背負い、荷物を背負う。
最終的には通信装置と、スキーと自分の身体さえ向こう側に届けばよいのだ。
おそらくあの向こう側は一気に下れる道が高熱によってできているに違いない。そう信じた。
「いくわよ。アスカ。」
垂直の氷の壁、約50m。普通のコンクリートの壁なら垂直登坂訓練で30mをやったことはある。
だが、相手は氷。厳冬期で、しかも装備は何もない。
「氷は溶けていない。溶けていなければ滑らない。滑らない壁はコンクリートと同じよ。できる。
あんたならできるわ!!」
自分にこうやって暗示を掛けていく。何回も下から見える限りのコースを繰り返す。
だが、身体が勝手に感じている恐怖が手足を震わせる。
シンジ・・・シンジ・・・シンジ・・・シンジ・・・。私を助けてくれるよね・・・。
次第に震えが止まっていく。必ず二人でまたあの部屋にかえるんだ。
二人で背中をくっつけあって眠ったあの居間に。
「必ず!一緒に帰るんだからっ!!」
かっと身体が熱くなった。最初の足がかりを踏み、手を掛ける。
指の感覚は、すぐ無くなる。感覚のない指は体を支えられない。支持用のロープもない。
口の中や、ポケット、ポケットのそこを破って自分の肌に直接押しつける。
感覚を取り戻し次のホールドを手で捜す。やっとの思いで長いレッジにたどり着いた。
小休止が取れる。
この先暫くは、下部の岩自体が順層で楽ができる。
その先は下からは見えなかったがテラスがあるようには見えなかったから、楽はできないだろう。
ここからみると真上はノブが続いているが前傾壁で、氷壁では無理だ。
迂回すれば10m異常横走りになるが仕方がない。
足場が弾かれがちなるのも当然なので、細心の注意が要る。
フットホールドは、弾かれると思っていた方がいいくらいだ。
手の方にしても、ロックとは違ってエッジや凹凸が混じっているようなものがある。
再結氷で壁が腐っている状態のところが多く当てにならない。
そう言ったバーミングホールドでは、岩場ほど長くは補完できない。
まともなホールドを数瞬で保持できないとそれでお仕舞だ。
数時間か、一体どのくらい氷壁と格闘していたのか。
何とか一番上の部分までアスカはやって来ていた。
しかし全くホールドできる物がない。体を思いきり伸ばしても、数10cm先にあるホールドには
どうしても届かない。
フットホールドは、ある。目指す最終ホールド自体は氷の中から現れた頑丈な岩であった。
「スタティックには無理、とすれば、手段はひとつだけか・・・。」
下を見たい気持ちを目をつぶって押さえ付ける。手は血まみれ。
全ての手段は使い果たし、体力が限界なのも充分すぎるほど分かっていた。
右手をポケットから突っ込んで穴を空けた所から腹部に当てる。
できる限り温めて指の強ばりを無くす為に。
ここまで来たが、迂回して遠距離を移動すれば、多分体力が持たずにFALLしてしまうだろう。
「Lunge!!」
アスカはフットホールドを蹴って、思いきり宙を飛んだ。
届いた!!
支持点から、自分の身体を必死で引きずり上げる。
フットホールドに足がかかる。蹴上がって登頂点の向こう側に転がり込んだ。
「やった!やったよシンジ・・・。はあっ、はあっ・・・。」
ついに登り切った。しかしアスカは暫く激しい息が静まらず倒れたままであった。心臓が爆発しそうだ。
「やった・・・、登り切った・・・。これで。」
リュックから通信機を取り出す。イリジウム携帯・・・応答無し。小型通信機。
小さく、ざざ・・・ざざざ・・という音が入って来る。
「きこえた・・・ 雑音すら入らなかったのに。やった・・・シンジ、これで助かるよ。シンジ・・・。」
アスカは最後の力を振り絞った。スキーを降ろし、シューズを組み立て、履き直す。ミトンの手袋をはめる。
つめがほとんど割れ、血まみれなことを、やっと意識した。感覚が消え掛けている
思った通り、その先は単純傾斜のアイスバーンの上に雪原が形成されているだけだった。
もう何Kmか行けば、受信域に入れるに違いない。
シンジは、その日の夕方、ヘリの爆音と共にアスカの笑顔を再び見ることができた。
わあわあと泣きながら、包帯だらけの手でシンジに抱き着いたアスカはいつまでも離れなかった。
アスカに抱き着かれたまま、シンジはヘリに乗った。病院についてからも、二人は離れなかった。
結局同じ部屋に入院し、ミサト達見舞い客は当てられっぱなしだった。
シンジもやっと立って歩けるようになり、アスカの包帯も取れた頃、二人は日本にかえって来た。
すでに9月も終わり、後期の授業が始っていた。
アスカは今年の夏がなくなってしまったことにぶつぶつと文句を言いつづけていた。
「あーあ、結局この夏はどっこにも行けなかったわねえ。」
「心行くまでスキーはできただろ?」
「冗談じゃあないわよ。あたし、むこう10年は、スキーはやりませんからね。」
「登山もね。・・・・アスカのおかげで命が繋がったんだ。ありがとう、アスカ。」
シンジは、アスカの瞳を見詰めて改めて言った。たちどころに真っ赤に顔を染めるアスカ。
「あたしだって・・・。シンジにどのくらい頼ってくらしてるのかすっかりわかっちゃった。
シンジ、愛してる。」
とは、口が裂けても言えないアスカ。かろうじて口にしたのが、
「そうよ、あんたはイッショウ私に頭が上がんないだからね。盆暮れの付け届けを忘れるんじゃないわよ!」
あーあ。
なんて頑固者なんでしょうね。約束のキスの続きだって、勿論忘れてはいないけれど口に出すわけもない。
その事を知っているのは例によって、親友のヒカリだけ。
周り中の人が二人を見てはいらいらしている。・・・・もう少しなんだけどなあ、あの二人。
それを聞いていた、中学時代からの仲間達は、パーティーを開いて、アスカを元気付けることを企画した。
同調したネルフのメンバー達も、会場の提供やカンパを行う。
何といっても二人はネルフのマスコットボーイ、マスコットガールなのだから。
「アスカ、いい?口で言えないことは、しょうがないわ。
でも私が作ったこの企画、潰したら分かってるでしょうね。許さないからね___。」
いつになく厳しい口調で畳み掛けるヒカリに、さすがのアスカもたじたじである。
「わかってるわよう・・・。あたし、がんばるから。」
「当然よっ!!」
キャラクターが逆転しているようなのが御愛敬であった。
日曜日。「祝、無事生還碇慎二君、惣流明日香さん。」のパーティーが突然挙行された。
ネルフに多いシロウトバンドの人たちが演奏したり、歌ったりの楽しい時間が過ぎていく。
シンジのチェロも好評だったし、青葉のギターもいつになく受けた。
ゲンドウとユイの夫婦デュエットも、意外なほどに上手であった。
この日の為に二人で毎晩のようにカラオケに通っていたとのまことしやかな噂まで流れた。
「さあ!!最後の出演者です!!新幹線バンド、演奏は洞木3姉妹、
ボーカルは惣流‐アスカ‐ラングレーっ!!」
司会を買って出たリツコガ叫んだ。意外な、予定外の出演者にみんなは割れるような拍手。
4人のバンドは、相当練習を積んだのか、結構、アップテンポな曲を次々と歌いこなしていく。
間が開き、アスカが前に進み出た。いつになく緊張している。
「あ、あの。今日は私とシンジの回復祝いの為に、こんなパーティーを開いてくれて、
ありがとう・・ございました。
えーっと、わたしはいつも、自分でも思ってるんですけど、悪いとも思ってるんですけど、
口が悪くて、行儀も悪くて、えと・・素直になりたいっていっつも、思ってはいるんですけど、
どうしても、・・・だめで、ヒカリにもいつも怒られてるんですけど。
今日は、今度のことでも、一番感謝してる人に、今日こそちゃんと、言わなきゃいけないことを言っ
て、感謝の言葉にしたいって、思ってます。私が作って、ヒカリ達と練習した歌を、
その人に送りたいと思います。約束もまもりたいと・・・もごもご。」
最後の方はよく聞こえなかったけれど、みんなは何かやるつもりなのはぴんと来た。
割れるような拍手にアスカは包まれた。
「歌います。ワン、ツー、」
スポットが切り替わる。静かなリズム。
一人で歌い出すと意外なほど細いアスカの声が、会場の中を渡って行く。
あたしが、いま一番言いたいこと 、教えてあげようか
ああ、よかったな、あなたがいて
あなたと一緒にいられるってこと、こんなにしあわせだなんて、おもったことなかったよ
誰でもない、あなたじゃなきゃだめなの
誰でもない、あなただから笑えるの
恥ずかしいこと言ってるってわかってる
あたしってこんな人だっけ、信じつづける夢の力
どんな時でも笑い掛けてね
どんな時でも手を繋いでね
どんな時でも肩を抱いてね
どんな時でも隣にいてね
あたしが今一番言いたいこと、教えてあげようか
ああ、よかったな、あなたといて
あなたと一緒に暮らせるってこと、こんなに楽しいだなんて、おもったことなかったよ
誰でもない、君じゃなきゃ駄目なの
誰でもない、君だから甘えられるの
真っ赤になってるって、わかってる
あたしってこんな人だっけ、信じつづける明日の光
どんな時でも笑い掛けてね
どんな時でも手を繋いでね
どんな時でも肩を抱いてね
どんな時でも隣にいてね
あたしはあなたのもの
大歓声が上がった。
真っ赤になって舞台の上で立ち尽くしていたアスカが、両手で顔を覆った。
シンジはもう、何もかも忘れて、みんなに突き飛ばされながら舞台に駆け上がった。
アスカを横抱きに両腕でかかえ上げた。驚くほどに、軽い。
「 アスカッ。」
「・・・シンジ。」
優しい黒い目がきらきらと輝いた。
アスカはもう何も分からなくなって、真っ赤になったまま抱え上げられている。
「アスカ。 君が僕の、ぼくの、世界で一番大切な人。もう絶対に離さないからね、アスカ。」
アスカは泣きながらコクコクと肯いた。シンジの唇が自分の唇を塞いだのが分かった。
熱い、熱い、身体中が熱い!
シンジの唇と、背中と膝の裏に当てた手から、何かが凄い勢いで流れ込んでくる。
「シンジィ〜〜〜っ。」
首にしがみついたままのアスカを、シンジが、固く固く抱きしめた。
会場中の人々が叫びながら、泣きながら拍手をしていた。会場中の人が祝福していた。
シンジはアスカの脇の下に手を入れると、高く抱き上げてくるくると振りまわした。
みんなが立ち上がって笑っていた。心の底から笑っていた。
雪の中の約束。END