「アスカは私の娘です。」
「確かに。そして私の娘でもある。遺伝子の提供者という意味ではな。」
その遺伝子配列に対して人為的にプログラムされたMobile DNAによる再編成を引き起こさせる。
転写調節配列の効率を劇的に変化させるようなDNAの変化が、ポリペプチドが合成される相対的
効率を大きく変化させる。この効率変化が進化速度とパターンに劇的変化を起こす。
新しい遺伝子が、既存遺伝子の完全なコピーからどのようにして産まれるか。新しい遺伝子とは、
それにより新しい生物の形質が生まれるという事だ。多くの遺伝子配列が複雑な生物のゲノムの
中に、何回にもわたって現れる。合成、組み合わせが無作為に起こり連続した繰り返しができる。
転移や組み替えによりDNA配列のコピーが新しい位置、異なる染色体に現れる。この時、本体の
遺伝子には何らかの機能を持った遺伝子は、蓄積してはならないという拘束があるが、もう一方の
コピーにはない。コピーのヌクレオチド配列の変化によって、コピーは進化を通じて保持されていくと
いった新しい機能を持つようになる。コピーは新しいあるいは異なった調節シグナルを獲得し、その
発生過程の異なる時期に、また特定の組織にのみ発現するかもしれない。余分なコピーが不活性
となる変異を獲得し偽遺伝子となるかもしれない。重複遺伝子のコピーは失われるかもしれない。
別の突然変異の悪影響によって、重複遺伝子を持つ個体が繁殖できない事も起こるだろう。
新遺伝子はコード領域、エキソンのコピーの新しい組み合わせからも生まれる。新遺伝子により異
なる遺伝子から次々と単一エキソンのコピーを行い、それを接続させる。それらがさらに重複して、
エキソンの繰り返しが生み出される場合もある。エキソンシャッフリングによって構成された明らか
に相互に全く関係のないコピー遺伝子群が構成されていく。
その限りない連鎖が続いていく果てにあるもの。
それを、人為的にコントロールする技術を得た科学者達は、少しずつ性質の異なる集積回路を組み
立て、異なる能力を持つコンピューターを得るように新しい「人間」を組み立てる夢に取り付かれた。
「確かに娘だ。しかしあれは実験体なのだ。なぜならあれは人間ではないのだから。」
ばたん!
ドアが叩きつけられるように閉められた。リノリュームの床にヒールの音が響いて走り去っていく。
「困った事になったな。こういう事についても理性的な女性だと思っていたのだが。」
男は電話を取り上げた。唇をかむ。
「軍の機密を漏らす訳にはいかん。最高の研究パートナーである同僚を失うのは何とも惜しい。」
男は決心した。自分が惜しむ物は彼女の人格ではない。記憶であり、知識であり、センスだ。
それを獲得できるなら別に問題は生じない。少し手間はかかるが、その用途に適したセクションも
彼は知っていた。
むしろ人格などと言う物があるがゆえに彼女は無用な苦しみを得るのだ。
機械に人格は不要だ。それが効率を上げる事を実証できれば別だが。電話口に出た相手に彼は
処理を依頼した。そしてそれは速やかに実行に移され研究所から彼女の姿は消えた。
葬儀が営まれ、彼女の身体はこの世から消えた。
12歳の頃。私は毎日戦いの訓練を受けていた。
射撃、体術、反射速度、ありとあらゆる局面におけるシュミレーション。
その全ての訓練において私は常に総合ベストワンの成績を収めていた。
幼い頃この施設に入ってからもう10年がすぎていた。この生活が私の生活。
全てにおいて最高の物を求め最高の位置をKeepしていた。天才と呼ばれ、そう思っていた。
来たるべき時に来たるものと戦うためにそれは必要とされていた。
私の才能がすべてを救う。
人類は私にその未来を委ねているのだ。
「つまり、貴官はぎりぎりの緊張状態が長時間にわたって続くと急速に精神的抵抗力が低下する
可能性がある。そんな分析結果をだしたコンピューターがあったのだ。最新型半有機コンピュータ
ーの判断であるため一応強化プログラムを組んでみた。精神的な脆弱性の確認。その補強の為
のプログラムだ。もう一つ新しい全天型視認システムの実験も今週から始めてもらう事になる。」
「はい。」
「アスカ、貴官は我が養成所でもぴか一の最高の訓練生だ。何も不安はないと思っている。まあ、
ベストワンの記録をもうひとつ増やしてきてくれれば良いのだ。」
「了解。特務士官アスカ・ラングレーは、本日よりこのプログラムにしたがって訓練を開始します。」
「うむ、頼む。」
特務士官というのは仮の階級で実際にある階級では無い。士官待遇くらいの意味だ。しかしこの
呼称が私は気に入っていた。その命令を受けた帰り道。立ち寄ったPXで苦いコーヒーゼリーを食
べていると、店長に声をかけられた。それがきっかけだったかもしれない。
「アスカさん、新しい通販カタログが入っていますよ。」
「ありがとうございます。」
私は渡された、シュラーンコロントッポ社の通販カタログを抱きかかえて席にもどった。当時、私の
唯一の趣味は洋服を毎月少しずつ買うことだった。毎月渡される給料は上官のコレツコ大尉が預
かって管理していた。そこから10%程度の金額を小遣いとして渡してくれる。だがこの訓練センタ
ーのある基地の中で使い道は限られていたし服や食事は支給されていて外出もしないとなれば、
その渡される金額でも多すぎるくらいだった。
実直なコレツコ大尉は本給はすべて貯蓄銀行の信託に回していた。同い年くらいの子供の楽しみ
を知らない私にいくらかの父性愛をもって、たまに映画やコンサートなどに連れて行ってくれた事も
あった。貯金の残りの使い道を考えた末、何かカタログを取り寄せ気に入った物を購入するという
手を考え出した。正直言って服にはまだたいして興味はなかったが、届けばそれなりに着てみたく
なる。似合えば誰かに見せたくもなる。すぐ近くの街に出かけいろいろな買物もしてみた。
だが近くの田舎町で買える物はしれていた。それでも買い物の楽しさを初めて知ることができた。
カフェでケーキを食べ、道行く人を眺める事は一週間の訓練の緊張をときほぐしてくれるのだった。
ぱらぱらとカタログをめくっていると、子犬の鳴く声が聞こえた。
「子犬の声?」
私は、無表情を装って尋ねた。
「ああ、新入りのヨーハンが基地に来る途中で子犬を拾ってきましてね。番犬かわり程度にはなる
でしょうから裏で、飼うことを許可したんですよ。まあ、番犬たって、こんな軍基地の中では無用な
ものなんですがね。」
PXの店長が愛想笑いをしながら言った。
「裏。みせていただいてもても宜しいでしょうか。」
「どうぞ、やせていてあまりぱっとしない子犬ですよ。」
私は、大急ぎで購買の建物の裏手へぐるりと回って走っていった。茶色の少し耳の長い子犬が紐
でつながれ、そこに生えている潅木に結び付けられていた。子犬はその紐が繁みに絡まって動け
なくなっていたのだった。
子犬は私の顔を見るなり早く助けろよというようにきゃんきゃん鳴いた。
私は子犬を抱き上げ、枝の中を通して絡まった紐を少しづつ解いていった。どうしたらこんなに絡ま
る事ができるんだろう。何本か潅木の枝をへし折って、やっと絡まった紐から子犬を解き放つ事が
できた。子犬はさっそく私にうれしそうにじゃれ付いてきた。ぺろぺろと顔を何回か舐められて私は
小さく悲鳴を上げた。其処にある大きなりんごの木に寄りかかって子犬を持ち上げた。
「この紐は、きっとまた絡んでしまうな。」
その時、PXの裏口から若い男の人がりんご箱を抱えて出てきた。こっちに向かって歩いてくる。
彼が、きっと子犬を拾ってきたというヨーハンだろう。林檎箱は子犬の犬小屋代りにするつもりに違い
ない。子犬がその青年に向かってほえた。ちぎれるほどにしっぽを振っている。
「おや、どこのお姫様がまぎれこんだのかな。よーし、ティッシュバイン。静かにしろ。」
「ティッシュバイン(テーブルの足、の意)?」
赤毛の髪。男にしては小柄な青年。
私の髪の色に似ている。そのことが僅かに親近感を感じさせた。
「こいつ、最初につないでおいた俺のテーブルの足をぼろぼろにしやがってね。」
「それでティッシュバイン。」
「きみが我が基地のお姫様、英雄アスカ・ラングレーなのかな。」
「特務士官、アスカラングレーです。」
「そうか、そんなお姫様にキスしてもらえるなんて幸せな奴だな、ティッシュバイン。」
「キスなんかしていない・・・。」
青年とそんなやりとりをしていると、膝の上に上がってきた子犬はまた私の鼻を舐めた。
私は尻餅をついて悲鳴を上げた。その光景を私は今でもありありと思い出す事ができる。
「わかったわかった!私がキスしたのよ!あははは。」
笑ってしまって力がぜんぜん入らない。その隙に子犬は私の顔をいいようにぺろぺろ嘗め回した。
ヨーハンが子犬を抱え上げてくれ なかったら、私はまだ暫く舐められつづけていただろう。
「よほど君の顔は美味しいらしいな。ケーキのクリームでもついてたか良い匂いでもしたんじゃないか?うん?」
「年頃の女性に言う事じゃないわね!」
彼は笑いながらそこに干してあったタオルを取って渡してくれた。
「ほら、顔を洗っていきな。タオルはゆすいでここにまた干しておいてくれればいい。」
「あ。ありがとう。」
「じゃあな、年頃のお嬢さん。」
彼は、りんご箱を子犬の横に置き、水飲みの小皿をそこにおくと、PXの中に入っていこうとした。
「あっ、あの!」
私は呼びかけた。きっと必死な顔をしていたに違いない。その頃の私が人に何か頼み事をするな
んていうことはまったく無い事だったから。
「また、子犬と遊んでもいいでしょうか。」
「ああ、好きなだけ遊びなよ。散歩用の革のロープもそこにかけてあるし。」
「散歩に連れて行ってもいいんですか!ありがとう!」
「はは、こっちは大助かりだ。」
ヨーハンはPXの中に片手を上げながら消えた。私はその場で声を出さずに躍り上がって喜んだ。
宿舎に飛んで帰り、自分のベッドから毛布を引き剥がし、それを抱えてふたたび全速力で子犬の
ところに駆け戻った。
「さあ、これであったかくなった。りんご箱だけでは寒いものね。」
ふと気がつくと、こんな僅かな時間の間にもティッシュバインは潅木の周りを回って紐を絡ませて
いた。このままではまた、暫くすれば鎖が絡み付いてしまって鳴き喚く事になるだろう。私は暫く
考えてPXに駆け込むと、材木と鋸とくぎと針金、スコップを買った。
「なんですか、土木工事でも始めるのですか?」
「ええ、ちょっと。とらわれの王子のために。」
PXの店長は私の受け答えにびっくりしたように目を丸くした。当時の私は、その程度の愛想さえ
しない娘だったのだ。
1時間くらいかかってやっと細い角材を切り落とす事ができた。斜めに木材を切るのがこんなに難
しいとは思ってもいなかった。もう一本は面倒くさくなって、大体の位置で足で蹴り折った。
「そうそう、最初からこうすれば良かったのよ。」
その後、短くした角材を土の中に埋めた。だがすぐに倒れて来てしまう。
「ちょっと浅かったかな。」
何回も掘り直して、埋め直して、しっかりと回りを踏み固めた。だけどやっぱり倒れて来てしまう。
段々いらいらしてきて、毒づき始める私。
「どうしていう事を聞いてくれないのよ。この馬鹿材木!」
材木を2本たて、針金でつないで鎖を針金につなげてやる。そうすれば広い範囲を自由に動ける。
そういうアイデアが浮かんだのに、実際にはその第一歩で躓いてしまった。悔しいやら情けないや
らで、思わずべそをかきそうになる。その事に腹が立ってますますいらいらする。
思わず蹴飛ばした材木が子犬のそばに落ちて「キャンッ!」と悲鳴が上がった。はっとして目をむけ
るとヨーハンがそこに立っていた。
「一体どうしたんだい、これは。」
そこら一面に散らばったおがくずやら針金のきれっぱしやら曲がったくぎ。おまけにティッシュバイ
ンが咥えて振り回した、土だらけに汚れた毛布が広がっている。私は、呆然とした後、うつむいて
黙り込んだ。見られた!と思った瞬間、もう涙腺が熱くなって来ていたのだった。
「ああ、子犬のためにいろいろしてくれようとしたんだな。こんな上等な士官用の毛布まで・・・。」
私はその後に続いて自分に与えられるだろう慰めの言葉が聞きたくなかった。だから、2,3歩後
ずさると、いきなりその場からきびすを返して、宿舎に向かって駆け出していた。ヨーハンが呼んで
いるのが聞こえた。なおさら振り返れなくなって、一気に宿舎までを駆け抜けていった。
馬鹿みたいに鼻水が出た。何度も目をこすりながら、あとも見ずに、逃げるように。
暫くの間、朝早くから夕方かなり遅くまで、新しいシミュレーションシステムで訓練が続いていた。
被っているヘルメットの中で4方向と上下を一度に見る事ができる、いわゆる全天型視覚システム
の実験だ。自分の目が12個に増えた様で、最初はすごく気持ちが悪い。30分もすると吐き気が
込み上げてきて、実際何回もエレブレった。
今日で10日目。やっと違和感にも慣れた。見ようとしないで、ただ受け入れる。調度、視野の脇
の部分が視野に入って来るような感じで見ようとせずに見えているあの感じだ。次第にその視野
外の物をよく見る事ができるようになり、さらに超音速の状態の動体視でも反応できるようになっ
てきた。もう一息で準戦闘ラインに達する事ができる。
「やはり、アスカはたいした物だな。わがフランス基地の実験ではこのラインに持ってくるのに22
日以上もかかったが。」
「まあ、アスカは天才ですからな、我がドイツ、ベルンカステル基地の誇りです。」
よくいうよ。ここまで来るのに、どのくらいの苦労があるか知っているの?この中で眠りこの中で食
事をし一時もゴーグルとヘルメットを離す事なく順応の努力をしてきたのを知ってる?そのフランス
のチルドレンはどうしてた?。無茶は承知よ、の一言で教官を説き伏せ押せ押せでやってきた。
誰にも負けないこと、それが私のレーゾンデートルだから。
ご機嫌な基地司令の賞賛のお言葉を延々と聞かされ、疲れきってPXの裏手を通った。
そこには、自分の計画していた通り、針金をぴんと張った杭が犬小屋の回りに配置されていた。
さらに杭の数は数本に増えていて、雨の日用にひさしの下に沿って伸びたものと、りんごの木の下
の日陰にまで伸びたものの2種類があった。子犬は私に気付いてしっぽをちぎれそうなくらいに振
って、こっちに向かって吠え立てた。
「おまえ私の事憶えてくれたの。いい子ね。」
忘れていたわけではなかった。忘れていなかったからこそここに行けなかったのだった。
手に持っていた講習資料を投げ出して子犬を抱え上げた。10日前のひ弱な感じがなくなり、足が
太くしっかりしてきていた。
「やあ、ひさしぶりだな。元気だったかい?」
いつのまにかヨーハンが私の横に立っていた。最後に別れた時の自分の醜態を思い出し、一瞬
たじろいだ。だがほんの一呼吸で動揺を押さえ付けた。
「気に入ってくれたかい?」
「なにがですか。」
とぼけて答える私。
「君が作ってくれようとしてたティッシュバインの繋ぎ場所さ。あの後、雨の日にもう一本付け足し
たんだ。こいつが大きくなったら、もう少しまた長くしてやるつもりさ。」
「ああ、このことですか。上手にできてますね。どうやって杭を固定したのですか。」
「こういうものは、大きな木槌で叩いてやらなきゃ駄目なんだ。君が途中までやっていてくれてたんで
すぐ作れたよ。」
そうか、上から叩いてやれば良かったのか。こういう事はやっぱり力と経験だから。
「今日はもう空けなんです。この子を散歩に連れて行ってもいいですか?」
「うん、こいつも君に会いたがっていたみたいだしな。ちょうど夕方だし。頼むよ。」
「じゃ、行ってきます。」
壁から、散歩用の紅い皮ベルトをとり首輪にはめてやる。散歩に行くのが分かって子犬は私に
飛びつきながらぐるぐると駆け回った。私と子犬は待避壕の方に向かって駆け出していった。
さっき、ヨーハンは私の事をずっとフロイラインと呼んでいてくれた事に気がついた。どうでも
いいような私の子供っぽいプライドに配慮してくれたのだ。
次の日曜日。私は子犬と一緒に町に出て来ていた。いつも行くカフェでケーキを頼み紅茶を飲む。
子犬は意外なほどおとなしく、チキンバスケットをとって身を2、3個分食べると、すっかり満足し
て眠り始めた。教会の日曜礼拝が終わったばかりの時間だったので、きちんとした格好をした人
たちが、私の周囲で色々な話に興じている。今年のバラに羽虫がつきやすいとか、バイエルの農
薬は指定よりも少し薄めた方が拡散がいいとか、犬ののみ取り首輪は、ヤコブの店で買えるとか
まあ、そんな日常の細々した話が不快でないくらいの声で語られている。ばたばた騒ぐ子供もい
ないし、場違いに甲高い声で笑う人もいない。私は、その蚤取り首輪を是非買って帰ろうと思って
小さなバッグから手帳を取り出した。毎日のカレンダーにはびっしりと訓練の予定が書き込まれて
いる。0600起床、0830座学講習、1000水泳、1035筋トレ、1100十二方位コンタクト訓練開始。
1230健康管理、1235ランチ、1300ベースランニング1345十二方位コンタクト訓練、血液検査1450
ザクセンウニベル講習・・・・。そこに赤い字でテッシュバインの蚤取り首輪。ヤコブの店と書いた。
自分の予定を手帳に書き込むのは今年になって始めてだった。
「いいもんだな。自分だけの予定って。」
それを眺めて私はほくそえんだ。ケーキを食べおわりティッシュバインをつついて起こすと、ヤコブ
の店を捜しに、カフェを出た。犬と散歩をしている人、数人に尋ねたらすぐにその店は分かった。
結構この町では有名なペットショップであるらしかった。蚤取り首輪を買って、おいしそうなドッグフ
ードの缶詰を買った。新しい散歩用の皮ひもと、歯を鍛える牛の骨を買った。立派な犬小屋が売ら
れていたが、これはヨーハンと、PXの店長の許可が要るだろうな。でも冬になったら必要になるだ
ろう。その時は私の机の中のお金でぜひこの子に買ってあげよう。その頃にはすごく大きくなって
いるに違いない。ペットショップの親父さんがティッシュバインはドイツシェパードの血が間違い無く
入っているから、かなり大きくなっているだろうと言っていたもの。
「おまえ、すごく大きくなるんだってさ!よーし、私が鍛えてやるからね!」
基地までの10kmを、私は子犬と一緒に走って帰った。ティッシュバインは2kmも走るとへたばっ
て動かなくなる。そうすると抱き上げて歩いたり暫くその辺で遊んだりして休み休み進んだ。それ
でも3時間くらいで基地に戻る事ができた。
「えらい、えらい。」
私はティッシュバインを犬小屋に戻すと、上機嫌で水や餌を変えてやった。そして午後は犬小屋
の横のりんごの木に登ってそこで本を読んでいた。それから暫く、私は休みの時間をそこで過ご
す事が多くなった。そして毎朝子犬と一緒に軽いランニングをした。今迄の時間と違う何かとても
充実した時間。今まで経験した事の無い時間を過ごしている気がして毎日がとても嬉しかった。
私の訓練が終わる頃には早番のヨーハンの仕事はもう終わっていて、いつもティッシュバインを彼
が訓練している姿が見られた。結構本格的な訓練をしているようだった。本を片手に台を飛び越え
させたり、腹ばいで進ませたり、有刺鉄線を潜り抜けさせたりしている。
「随分本格的な訓練をしているのですね。」
「そうだよ、何と言っても軍基地にいるんだからね、何かの役に立てるようにいざという時のために
訓練しておいたらいいんじゃないかと思ってさ。」
「軍用犬?そんなことできるのかしら。」
「この、きれいな茶色の目を見てくれよ。かしこそうな顔をしてるじゃないか。訓練次第ではきっと
いい軍用犬になると思わなるよ。」
「ただの面白がりの遊びたがりの目に見えるけど。うふふ。」
「ちぇっ、そうかなあ。結構いい線行くと思うんだけどなあ。軍用犬育成部の、ヴァンデンボッシュ
さんからもいろいろ教えてもらってるんだぜ。」
あごひげをはやした、いかにも謹厳実直な、典型的なドイツ軍人の顔を思い出した。
「あの人に?どうやって頼んだの。」
「ビールを飲みに来たら半パイントサービス。」
「随分お手軽な買収ですこと。」
「しっ!この事は内緒だぜ。どこで諜報、憲兵隊の目が光っているか分からないからな。」
「秘密結社みたいですね。」
私は笑った。ティッシュバインは首を傾げて私を見た。その茶色の目がますます笑いを誘うのだった。
私が笑いつづけるあいだ、子犬はしっぽを振りつづけた。
夏は以前よりもずっと厳しくなり酷い暑さが毎日続いていた。変わりの無い毎日の中でティッシュ
バインだけが毎日大きくなっていった。
8月。 ついに私がずっと行ってきた訓練の成果が形になってやってきた。12方位人型アーマーの
試作機がこの基地にやってきたのだ。目が正面に4つ。その人造眼球は、一個一個が生きて動い
ている。真の意味で、全ての眼球が生体部品であり、いかなる電子眼球をも凌駕した解析性能を
持つ。それをパルス化して操縦者の脳に直接伝達してくるのだ。上下方向と後方にも眼球がある
が、一つ一つの眼球を広角化することで、10で全天球をカバーする事ができた。試作機パイロット
には私が指名された。この機の視神経接続方法は、来るべき究極の目標たるEVAsystemにも採
用される事が決定していた。後の実戦配置タイプでは、高性能後方確認レーダーとの組み合わせ
により眼球の数はさらに減って、汎用性を高めていく事になる。
試作機は従来の無骨な短躯の物とは全く違った。スラリとした動物により近い形であり、その形状
は、いわゆる半神半馬とでもいうものであった。これが次期EUの陸上攻撃用モビールアーマーに
なるだろうという事だった。立ち上がるという事は今迄の常識からは全くメリットの無い物であった
にもかかわらず、この多足歩行型戦車はより人間型に進化しつつあった。この全天球視認システ
ムは、それになくてはならない物だった。その頃の私はまだEVA本体の仕様を全く知らなかったた
め、実質的には最後の私の練習機となったこの機体を、大変誇らしく思った物だった。世界中で只
私一人だけが搭乗できる機体。その事が幼い私のプライドをどんなにか満たした事だろう。
その実験が終わった日の夜。私はまたティッシュバインと夜の散歩を終わらせてPXに戻ってきた。
そこに、迷彩っぽいダークな服を着込んだヨーハンが泥だらけの格好で戻ってきた。一体何をしてい
たのやら。
「やあ、アスカ。今日はすごいのに乗っていたねえ。」
ヨーハンが何気なく私に声をかけた。ティッシュバインがのしかかってくるのを支えきれなくなった私
が、仰向けに倒れていつものように彼の舌から逃げ回っている時だった。私ははっとした。重要な
軍事機密である「トロイ」の起動実験は十重二十重に監視部隊が展開する、基地奥深くの森の中
で、行われた。正規の軍属ではないPXのメンバーが見れるような物ではないのだ。
「ヨーハン!あんたそれをどこで見たの!あの実験はそう簡単に目にできる物ではないのよ!」
「僕がなぜこの施設にいると思うんだい?僕は実は熱狂的な軍事マニアなんだ。どんな危険を犯し
てでも、見たい物は必ず見る。今日はあの森の中に昨夜から穴を掘ってずっと潜んでいたんだ。
今やっと警備が解除になったので戻ってきたところさ。まあ、僕にかかれば警備班なんて・・・。」
「そんな!もし見つかったりしたら有無を言わさず軍法会議で、へたをすればスパイ容疑で銃殺よ。」
「今更どこに軍事スパイがいるって言うのさ。僕らの仲間はあちこちで捕まってはいるけど、大抵は、
大目玉は食うけどそんな深刻な事には、」
私はその言葉を遮って叫んだ。
「甘いわよ!此処は只の軍事実験施設とは違うのよ。軍よりもっと上位の機関の直轄命令で動いて
いるんだから。私喋らないでいてあげる。その替わりすぐに、この基地から出ていきなさい!」
「じょ、冗談だろアスカ。」
「冗談だと思うのっ!!」
私は、反射的に腰のホルスターから拳銃を抜き出した。真っ直ぐにヨーハンの胸を狙う。彼は、私に
とっては大切な友人だった。だから死なせたくなかったのだ。この軍事マニアの青年は明らかにこの
基地の性格を読み違えていた。本当の機密と言う物がある事を知らない。だからこんな無謀な事が
平気でできるのだ。
「友達だと思っていたのに。」
無念そうな顔で彼は言った。私は黙ったまま撃鉄を起こした。手が震えた。
「所詮お嬢ちゃんにこの男のロマンは理解できないか。」
私にとっては戯言としか思えない事を彼は口から吐き出すと、後ろを向いてPX脇の自転車置き場に
むかった。そして、ゲートに向かって走り去った。基地の外の世界の青年の、現実感とはあんな物なのか。
信じられないような思いだった。
うつむいている私の鼻先から涙がたれた。それが、コンクリートの通路に落ちてしみを作りながら広がって消えると、
また次の涙がたれた。
「うっ、うっうっうっ・・・。」
しばらくの間私は其処にしゃがみこんでいた。日が落ちて、あたりが暗くなっていく。
「・・・おいで。ティッシュバイン。」
私はティッシュバインをかき寄せると宿舎に戻ろうとした。彼がいなくなった以上、この子の面倒は私が見なくてはならない。
ここはそれには遠すぎる。私の個人宿舎のポーチで飼う事にしよう。許可は明日、コレツコ大尉に貰えばいい・・・。
とにかく私は疲れきっていた。ティッシュバインの綱をにぎったまま歩き出そうとした。その時だった。
遠くで、乾いた銃声がした。
私は、はっとして顔を上げた。心臓が激しく胸をうっている。私は走り出した。息が切れ出した頃にゲートが見えてきた。
守衛室の青い回転灯が非常事態を示す赤い色に変わっている。門衛が3人何かを囲むように立っている。
私はゆっくりとゲートに近づいていった。ゆっくりと動く景色が次第にぐらぐらと揺れ始めた。息が詰まる。
そして急速に失われていく現実感。それと共に周囲から私を包んでいく既視感に吐き気がする。
全力で走っているはずなのに何故ゆっくりとしか近づいていけないのだろうか。
警告を無視して自転車で全速力でゲートを駆け抜けようとした青年。軽いスポーツ感覚で失敗してもお目玉を
頂戴すれば事がすむと思っていた。誤って許してもらえなかった経験のない世代。ゲートの外の世界の常識。
セカンドインパクト後の大切な、後を継ぐ世代。理想と自由と甘えだけで育った世代が異世界と触れた瞬間。
彼の赤い血と、白く流れ出た脳漿が目に飛び込んできた瞬間、私は、立ち止まって後ろを振りむき、冷静に宿舎への道
を、しっかりとティッシュバインの皮ひもを握り締め、たどり始めていた。どのくらい時間をかけて部屋に戻ったのかわから
ない。私は部屋のドアの前にしゃがみ込んでいた。頬をなめるティッシュバインの暖かい舌の感触で、ふと我に返ったの
だった。私が犬の首を抱きしめると悲しげな声で彼は細く鳴いた。
「明日からは、私と暮らそうね。おまえ。」
ドアの鍵をあけポーチから中に入った。部屋に入ると犬はそのまま大人しく食堂の机の横にうずくまった。
「其処がいいの?」
ティッシュバインは、「そうだ。」というようにしっぽをぱさぱさと床を掃くように振った。私は深皿を取り出すと、ミルクを
どぼどぼと注いだ。彼がそれをきれいになめ取ってしまうと、昨日の食べ残しのビーフをやった。
ティッシュバインは、それをすぐに片づけてしまうと、自分の仕事は終わったとでも言うように前足の上にあごを乗せて
目を閉じて動かなくなってしまった。私はシリアルを取り出すと皿に出し、ミルクをかけて食べた。
食堂に行く気にはなれなかったのだ。そのままバスルームに行き、シャワーを浴びた後お湯をたっぷりとはったバスに
入った。ぷくん、と頭までお湯の中に身体を沈める。淡い光がお湯の中で揺らめいているのが見える。
私はしばらく息をこらえてお湯の中を眺めていた。ヨーハンのことが突然頭を過ぎり、私はお湯の中で目から涙が流れ
出てくるのを感じて震えていた。明るくて気さくな友達。その彼はもうどこをさがしてもいない。
それでも私は攻撃用ロボットに乗るための訓練を続けるだろう。いったい私は何をやっているのだろう。
私は生まれて初めて、自分のことをうとましく感じた。
陰鬱な夢。内臓が一つ一つ抜かれていく。鋭い穂先が私の身体を貫いていく。痛みはないが身体の中に刃物が入り
込んでいく異様な感覚に身悶えする。手が、足が、指が、筋繊維が、神経糸が、血管がバラバラにほどけていく。
私の身体は分解され溶融し、還元される。
私の身体をいじらないで。私の身体を壊さないで。
だが私の身体は細胞にまで分解された上に2重の螺旋を逆に描きながらループを回って更に解きほぐされていく。
しっかりつかんでいたと思っていたものが、手の指の間から零れていく。何もかもが揺らめきながら消えていく。
この現実は恐い。この現実を忘れたい。この現実は本当のことではない。この現実には2度と近づきたくない。
「バトラミドコール2mg。ストラポララミン5mg静脈注射。」
遠くで誰かがつぶやいていたような気がした。陰鬱な夜は続いた。いつまでも。
朝、目が覚める。今日もすっきりとした爽やかな朝だ。
カレンダーには今日の予定表が書き込まれている。0630ランニング。0730食事。0815健康検査採血投薬等。
0850ザクセン大学講義。
今日はザクセン大の工学部の講義がある日だ。1800までは訓練はオフ。週に2回の楽しみの日だ。
飛び起きて、服を着替えランニングに出かけようとするとベッドの下から出ていた何かの汚れた赤い紐が足に絡まった。
なんだろう。私は一瞬それを手にとって眺めたが記憶にないものだった。すぐにごみ箱に投げ込んだ。
ドアを開けて外に出ると、まだ朝もやがかかっていた。そう言えば今日からサマータイムだった。まだ仄明るいだけの
滑走路へ続く草原のうえを、もやが漂っていく。その周囲を回るコンクリートの道をいつものように走り始めた。
周回秒数は定められている。16”15〜18”00の間でできるだけ揺らぎを少なく走らねばならない。
毎日の日課が始った。
「アスカが活動を開始。走り始めました。心拍、血圧等の基礎数値に特に問題は無し。」
「8極ホルター異常無し。」
研究所の所長は報告を聞きながら思考を巡らしていた。
(記憶消去コントロールは良好のようだ。アスカに初めて依存性、保護本能のコアとなるものを与えてみたが、
さほど好影響があるともおもえない。反面、失った際のダメージが大きすぎる。人格などと言う物があるがゆえに
彼女は無用な苦しみを得る。やはり兵器には感情はいらんということだ。リミッターを超えた場合に記憶消去ができ
なければどうなるかも興味のあるところではあるが。)
男はさらに考えた。
(リミッターを超えた衝撃があった際に感情が内向する傾向が数値的に見られる。これはアスカの欠点だ。
おそらく何かに心理的依存をしたあとではその反動はさらに高くなるだろう。そういう者を最初から受け入れまいとする
性向を与えておく必要がある。日本で行われたようにまったく最初からまったくのクローンを使うほうがいいのかもしれん。
アスカはすぐに、人間に戻ろうとするからな。)
「どちらにしろ、すべては架空の記憶であっても、アスカには何の問題も生じない。適切なバックアップのもとにおいて、
優秀な部品として機能できることが確認できた。」
彼はちらと、アスカの遺伝子上の母親の記憶を管理している巨大な半有機合成人工知能を見やった。
このシステムはいずれ完成するEVAsystemのバックアップ機構として組み込まれることになっている。
いずれこの二人によってさらに完璧に近いSystemを組み上げること。それが彼の目標であった。
走っていくと、PXの建物が見えてきた。裏庭に立っているりんごの木の根元に目が行った。一瞬何かが私の目前を稲妻の
ように走った気がした。きれいに刈り込まれた芝生と、積み上げられたビールビンが整然と並んでいるだけのPXの裏庭。
私は目をこすった。何かが目に入ったようで、ちくりと痛んだのだ。
その痛みはすぐに消えたので私はさらにランニングを続けた。
私はアスカラングレー。12歳。人類はその未来を私に委ねているのだ。
太陽が昇ってきたらしく、あたりが急に明るくなった。
12の頃:おわり。
アスカが12歳の頃の話です。記憶も感情も開発のためにすべてをコントロールされていた12歳の頃のアスカ。
兵器としての性能向上だけを目指す開発者。その為にすべてを毟り取られていた少女。
このような生活が続いた後、EVA弐号機を与えられ、その技量を磨いていったのであったというお話です。
アスカの極端な対人攻撃性、自己顕示欲、は裏返しの対人防御、内向性ともいえますがそういう物自体が、
兵器としての性能安定を目指すものだったという設定です。その意味でアスカは綾波と同じく疑似記憶を与えられた
人形だったのではないかと言う発想で書きました。現時点からのアスカの記憶をたどった場合は出てこない記憶の
断片ですね。EVAの登場人物はみんなこういう記憶をいじられた人たちという気がするんです。ミサト達大人も。
いわばEVAのお話が始る前のお話ですね。その時点その時点でのアスカの独白とアスカの知り得ない場面も
出てきますが話の構造上独白が必要でしたのでこういう話法になりました。読みにくいと思った方すみません。
この作品は、もきゅうさんのWebサイト、「太(いぬ?)」に投稿しております。
「僕のわがままな恋人」につながる設定です。
Oct,22,2000