ぼくのわがままな恋人

―ドイツにて 前編―

 

こめどころ


 

 

 

 

私がドイツ第4東部空港に降り立ったのは2016年初夏だった。

 

広い駐機場から空港ロビーまで徒歩で熱いアスファルトの上を歩く。

サードインパクトの後の静かな荒廃がここにも影を落としている。

何機もの着便があるのに空港の中は人間が少ない。

どんな人が戻って来て、どんな人が戻らなかったのか。よくわからない。

向こうにしか会いたい人間がいない人は戻ってこなかったと言う人がいる。

この世がつらい人間も戻ってこなかったという人もいる。

心の壁が要らない世界は、全ての対人的要求がかなう世界。

自分の全てがさらけ出せる世界。

 

サードインパクトの後の世界。

浜辺で泣きつづけるシンジと別れて、私はふらふらと基地に戻る為に歩き出した。

 

ネルフ基地にたどり着いた私を待ち受けていたのは、キャタピラにすり潰された守衛。

首を掻き切られた警備員。抱き合ったまま黒く焦げて半分炭化した女性職員たち。

窓に飛び散る血漿。穴だらけの制服から流れ出し固まった血液。壁に張りついた脳漿。

焼けこげた赤い制服。銃を握り締めたまま落ちている腕。ベークライトに埋もれた死体。

飛び散った上半身からトグロを巻いて飛び出している内臓。

私は吐いた。吐いて吐いて吐いて、とうとう吐くものが無くなって、胆汁で涎が黄色くなり、

喉が切れて血が混じってもまだ吐きつづけた。

 

基地全体に滝のように流れるLCL。

その流れの中から、人間が湧き上がるように起きてきた。

頭を上げ、きょろきょろと周りを見回す人々。

呆然とそれを見ていた私。私もこうやって再形成されたのだろうか。

私は…エヴァシリーズと戦って…そして…。

突然、記憶が蘇る。私の身体に襲い掛かり内臓を食い散らすエヴァシリーズ。

激痛。操縦席でのたうつ私。一斉に放たれるロンギヌスの槍。

ずたずたに切り裂かれた私の身体。

 

シンジはとうとう私を助けに来てくれなかった。

 

生き残ったネルフのメンバーは、日本政府の差し向けた警察部隊と、他国の救援隊に

保護された。

混乱の中、私はドイツへ送還される事となった。ドイツネルフはドイツ連邦軍に吸収されていた。

日本と違い、ネルフと軍が近しい関係を維持していた為混乱は殆ど無かったらしい。

ドイツ大使館の幹部と面会した私は、そこで除隊を申請するように勧告された。

もとより私自身もそうするつもりではあった。

私と日本で関係していたネルフのメンバーは全てLCLから帰っては来なかった。

シンジを除いて。不思議と悲しいとは思わなかった。

そして、大使館の世話で私は虎ノ門の病院に入院した。

極度の心身ストレスによる耗弱状態。適応障害。妄想性人格障害の疑い…。

 

「ミサトさんも、リツコさんも、父さんも死んだんだ。僕は独りぼっちになっちゃったんだ。

ねえ、アスカはどうするの。これから…。」

 

下から覗き込む様にして、見舞いに来たシンジは尋ねた。

 

「どうしたいの。シンジ。また一緒に住みたいの。私を見捨てたくせに一緒に住みたいの?」

「…じゃない…。みすて…たんじゃない。…動けなかったんだ…。」

 

蚊の泣くような声。

 

「アスカ、ぼくを見捨てるの?」

「見捨てるとか、見捨てないとかって話じゃないでしょっ!!あんた、まだわからないのっ!!」

 

私はシンジの胸ぐらをつかみ上げていた。思わず涙が吹き出る。

 

「みんな死んじゃったのよっ。死んじゃったのよっ。誰が…誰が…。うっ、うううう。うう。」

 

手を放すとシンジはずるずると床にしゃがみこんだ。

 

「アスカ…。違うんだ…。」

「出てってよ。私、ドイツへ帰るわ。シンジと一緒にいてもつらいだけだもの。」

「アスカ、待ってよ、アスカ。僕の話を聞いてよ。」

「聞きたくない。あんたの事は忘れたいの。楽しい思い出だけ持って帰るんだから。」

 

私はシンジを部屋から押し出した。

 

「あんたも忘れた方がいいわよ。私の事なんか。」

「いやだ、僕はアスカといたいんだ。アスカの事、忘れたりなんかしない!」

 

必死で抱きしめるシンジを、私は力いっぱい殴りつづける。

 

「うるさいうるさい! ガキに用はないのよっ!何故私といたいのか説明できるのっ。

あんたは私を利用したいだけなのよ。寂しいから、恐ろしいから、目を背けたいから。

あんたは、私が必要な訳じゃない。誰でもいいのよっ。」

 

シンジは黙って殴られつづけていた。

唇が切れて血が滲んでも。壁に思い切り頭をぶつけても。

ただ黙って殴られていた。

 

数週間後、やっと退院を許されドイツ大使館で暫く暮らす。

大使館では戦略自衛隊から流れてきたらしい映像の講習があった。

激しい戦闘。ずたずたになった弐号機。吊り上げられていく初号機。

そして巨大なファーストの象があらわれ、天空を覆う尽くす輝き。

激しく画面が揺れ、カメラマンのLCL化の瞬間で、映像は終っていた。

 

大使館にこもっている間に、ネルフの合同慰霊が行われたという事を聞いた。

こうして全ての事象が明らかになってみると、私は人間という一つの共同体幻想の

中には、―群体といっても良いけれど―、いらない人間なのだと思う。

傷を舐めあえない人間は存在できない、群体という社会形態。

日本の温かい湿った人間関係は心地よかった。

でも私の全てが、あそこにいて心地よい訳ではない。

嘘でもいいから言って欲しかった。

キミダケガヒツヨウナンダト。キミダケヲアイシテイルノダト。

かといって、私にそれが信じられただろうか。

 

私のいたかった場所は永久に消滅してしまったのだ。

たった一人の男の子を除いて。

 

あの浜辺で、そいつは私を殺そうといていた。そして泣いていた。

気がついて最初に見たあいつは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をしていた。

私をこの過酷な現実の世界に引き戻した事を悔いていたのかもしれない。

LCLの海に私を戻そうとしていたのかもしれない。

「うるさいうるさい! ガキに用はないのよっ!何故私といたいのか説明できるのっ。」

 

ワタシハセツメイデキルノ? ナゼシンジノナミダヲミテイタクナイノカ。

 

私は、彼が苦しんでいるのを見ていたくなかった。

あいつに苦しめられるのも嫌だった。

私はあいつを苦しめる。

あいつは私を苦しめる。

私はあいつに何もしてやれない。

あいつは私に何もしてくれない。

私があいつに与えてやれるものは何も無い…。

あいつが私に与えてくれるものは何も無い…。

 

 

 

 

 

アソコデワタシガナイテイル。

 

アソコデワタシガナイテイル。

 

アソコデワタシガナイテイル。

 

アソコデワタシガ…

 

ナイテイル。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

除隊手続きが完了し、ドイツ行きの飛行機に乗り込み、日本と別れを告げた。

 

 

アスファルトからの激しい照り返しに、私はふと我に返った。

つきそいの軍看護婦が早く歩くように促した。

どうやら、駐機場からロビーに向かう途中で立ち止まっていたらしい。

私は、苦笑して歩き出した。

 

ドイツでは、帰ってきた者は、日本以上に少ないようだった。

思っていた以上にみんな疲れていたんだ…。

あの、心地よいLCLの海から、私は何故帰ってきたのかわからない。

なんの心配も偽りも無い、ただひとつの単体生物になって漂っていたかった

ような気がする。

生きているLCLの海。この地球上にただ一つの生命。

生きとし生けるもの全ての元の姿。原始スープに還元された世界。

 

ただ、永遠の安らぎと全てが存在し、同時に何も無かった世界。

 

 

 

旧ポーランドとの国境に近い私の故郷まで、鉄道でベルリンから3時間。

白樺とトウヒの森が続く平原を古い列車を乗り継いでいく。

私の登録上の家族が住む家。

ツバンツィッヒブルクの黒い森のはずれ。丘陵地の麓の小さな家。

 

風が強い。

駅に降り立った私は、ネルフの制服と軍用コートに身を包み、

赤いスーツケースを持って歩き出した。

 

青く広い小麦畑がつづく、私の父母が住む家にむかう。

乾燥した大陸の風がふきぬける。

湿気の高い日本の空気と違うドイツの風。

ヘッドギアをはずし、おろした私の髪を吹き散らす。

 

 

 

 

 

 

その家の前に私は立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

一度だけ、父母の求めに応じてクリスマスに泊りに来た事がある。

私の義理の父母は優しい。

それが愛と呼べるものだったかどうか私にはわからなかったが。

遠く故郷をはなれて訓練基地に住む私をいつも気遣ってくれた。

時々電話もしてくれた。手紙も。誕生日にはプレゼントが欠かさず贈られてきた。

しかし、私はいつも、儀礼的な返事を返しただけだった。

好意をむけてくれる事は嬉しい。だけれど負担になるのは嫌だった。

クリスマスに帰ったのも、雪深い中を家に帰って、義理を果たしたつもりになりたい

からだったに過ぎない。

 

私は、自分の必要とするものは自分ですべて獲得できた。

独りでも暮らしていけた。

同情も、哀れみも、共感も、友情も、愛も要りはしなかった。

 

必要なものは自分の力だけで手に入れれば良いのだ。

そして、手にいれられないものは、まだ、なかった。

 

 

 

 

だけれど…、

全てが終った時、私にはここに帰ってくる道しか、残されていなかった。

 

 

 

 

 

 

両親はLCLの海から戻ってこなかった。

 

白い壁に黄色い屋根の家。軒下にカケスが巣をかけている。

こげ茶色の柱が壁を飾り可愛い破風と出窓が並んでいる。

荒れた庭に、伸び放題になったバラと、名も知らない花々が

四方八方に茎を伸ばし好きなように咲き乱れている。

カエデの木が芝生の真ん中で葉を広げ、その下に小さなベンチ。

 

窓の下でそのままになっているフラワーポッド達。

枯れ果てたまま、訴えている。この家の主人がいなくなったと。

 

ドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。

真っ暗な家の中。引き込み電線がどこかで切れているらしい。

台所で蝋燭を何本か見つけ出し、ピアノの上の燭台において火を付ける。

日常そのままの家の中。

 

サードインパクトの最中、ヨーロッパの大部分は夜であった。

そのまま殆どの欧州人は還元されてあの海に飲み込まれた。

最後の審判がかくも静かなものだと誰が予想していただろう。

叫びも、雷(いかずち)もない。ただ静かに海に飲まれていった欧州連合の人々。

 

2階への階段をゆっくりと登る。右の奥の部屋が両親の寝室。

手をからめ合ったような形のまま、父と母の寝間着だけが残されていた。

その寝間着を取り上げた。抱きしめると父母の香りがした。

 

「お母さん。帰って来ないの…。お父さん。そっちがいいの…。

私、帰ってきたんだよ。」

 

寝間着を持ったまま、階段を降り庭に向かう。

庭のカエデの木。二人が好きだといっていたカエデの木。

そこに穴を掘る。意外と固い地面に納屋から持ち出したスコップで。

十分な穴を掘るのに30分くらいかかった。

その寝間着を埋め、居間にかかっていた、大きな十字架を、そこに立てた。

咲き乱れているバラを切り取ってその上に花束を置いた。

予想していた事だったが、大きな寂寥感が私の心にあった。

許しを乞いたい気持ちを押さえつける。

鳴咽が固まりになって、喉元まで込み上げてくる。

 

「ここは、いつ帰って来ても良い、おまえの家だよ。」

「この東南の角のお部屋がアスカちゃんのお部屋ですからね。」

 

私の為に用意されていた部屋。

 

青いカーテン。

森の中を模した壁紙。

壁にかけられた、おそらくは母の手作りのタペストリー。

お揃いの胡桃木のデスクと本棚。部屋の中央の丸い机、椅子。

ふかふかのベッド。

クローゼットの中には、品の良いピンクのガウンと、

いかにも女の子らしい寝間着と部屋着がかけられていた。

 

ここに帰ってこなかった何年かの間。私を待ち続けていたもの達。

 

「せっかく用意していたのに、アスカちゃんに着てもらいたかったのに…。」

 

母は何回も言って、私がこのピンクの部屋着を着ない事を残念がった。

クリスマスの一泊。

軍の制服でかえってきた私は、面映ゆい事もあって、決して手を通さなかった。

 

(「ピンクのガウンなんて私に似合う訳無いじゃない。」)

 

心の中で、いらいらと思った。

近所の人たちをパーティに呼ぶ神経も嫌だった。

プレゼント交換も、父や母の笑顔もたまらなく嫌だった。

 

(「偽善者!私の事が邪魔なくせに。」)

(「私がテストパイロットをやっているからそのお披露目が

したいだけのくせに。」)

(「自慢の娘が欲しいだけなのよ。私はお飾りの人形じゃない。」)

 

にこにこと応じながら、心の奥底で、毒づきさえした。

わざわざやって来てくれた、隣家の同い年の女の子にさえ、

本当は冷たい目をむけていた自分。

 

「お隣りのお嬢さんで、クリーネというんだよ。アスカ、おまえと同い年なんだ。」

「はじめまして、アスカさん。軍のテストパイロットなんですって。すごいなあ。」

 

喘息がちだとか言っていたクリーネは単純に私の事を賛美してにこにこと笑っていた。

表面上、クリーネや父母との話は弾み、私は精一杯の笑顔を振り撒く。

でも心の中で思っていた。

(「可哀相な家なしっ子の為に来てくれてありがとう。親切なお隣さん。」)

 

次の日の朝早く、基地からの迎えの車に乗り込もうと部屋で準備をする私の所に、

再びクリーネはやってきた。

降り出した雪が彼女の黒い髪を濡らしていた。

私の頬にキスをすると、クリーネは握り締めていた手を差し出した。

 

「これ、私のクロスよ。お友達になった記念に。」

 

純銀の小さなクロス。堅信礼の時に受け取る大切なクロス。

 

「ありがとう。」

 

そんなに開けっぴろげな好意を受けた事の無い私は赤くなって礼を言ったっけ。

黒い髪の濃い碧の目のクリーネ。

あのクロスを、どこにしまっただろう。

前の晩に、父から貰った宝石入れの小箱。

あの中にしまった。

 

わたしは、胡桃木の鍵のついた引き出しをそっと開けた。

箱に入ったままの宝石箱がそこにあった。

その宝石箱を開ける。少し酸化して黒ずんだクロス。

 

なにもかもあの頃のまま。

 

カエデの木の下の十字架の前。

私は、涙を押さえ切れなくなって、いつまでも立っていた。

 

太陽が沈んでいく。

私の影が長く伸びて白い柵に届いていた。

 

 

ワタシハ、ヒトリ。

 

アイツハ、イナイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の日の朝。午前中から日差しが強く、空気は乾燥していた。

唇がぱりぱりする。

夏小麦の刈り入れが近い。

町中が総出で働きつづける日々。

 

私は、家の外に出た。

隣りの家を通り過ぎ、教会の尖塔を目指して歩いていく。

道が石畳になり、広場が見えてくる。アゴラのすぐ脇に噴水。

馬や羊用の給水場。糸杉の大木が一本。

その横にあるパン屋は開店していて、何種類かのパンを並べている。

ミルクとゼンメルパン、タマゴとバター。ソーセージと炙り肉の固まりを買う。

共同農場組合に行き、野菜の種と、種芋を分けてもらう。

役場に行き、住民登録をする。配給労働登録票に記入をする。

私の軍服に奇異の目が集まる。

明らかに純粋ドイツ人と違う容貌を見て、こそこそと耳打ちをする人々。

 

 

これからこの町で暮らすのだ。

 

 

2014年欧州の主穀物生産地であるドイツ、ポーランド、ロシアでは1990年代末セカンドインパクト

直前の9000万トンから大きく落ち込み,わずか3000万トンに止まった。これは1950年代初頭の

生産水準をも割り込むという歴史的な凶作であった。

 

「こちらは、ラングレーさんの娘さんのアスカ嬢です。ずっと軍の特殊部隊で勤務され誉れ高い

テストパイロットの仕事をなさっておられましたがこのたび除隊され…・。」

 

共同農場の責任者が私を紹介する。

好奇の目。同情の目。あからさまな敵意の目。色々な視線が私を包む。

昔からの事だ。今更たじろいだりはしない。

 

2013年の豊作による大量の穀物在庫の存在さらに「人道的援助」によるアメリカからの2000万トンの

小麦の無償提供、中国からの500万トンの有償援助、旧東欧、西欧諸国の大増産により、

,2014/2015穀物年度(2014年7月1日〜2015年6月30日)には,穀物供給には重大な問題は発生しなかった。

だが,問題は解決したわけではない。すでに頼るべき予備はなく,欧州の穀物需給は,もっぱら2016年の収穫

いかんにかかることになったのである。欧州連合は,飼料穀物輸入を「その完成品たる畜産物」の輸入に

変えることにより,穀物需要を激減させた。

 

「我々の農場も、豚と牛を35%処分せよという政府の命令が来てね。セカンドインパクトの後、

長い事かけてやっとここまでにしたものを…。その分デンマークからの乳製品とアメリカからの肉類の配給を増やす

という約束だったが結局それも守られないままだったよ。」

ケージが開いたままの畜舎を見学する。最初の仕事はトラクターで青草を運び、長い鎌で牧草を刈り取る仕事だった。

大人は忙しく、この仕事が私のような都市住民や、未成年者に割り当てられていた。

 

サードインパクト後の人口激減を勘案しても、各種資料を総合すると,総欧州需要を完全に満たすためには

6000万トン台の生産が不可欠である。はたして,2016年の収穫はこの量を確保できるのかが世界の最大の関心事となった。

2016年5月には, この時期としては強くかつ長引いた寒波が中・東欧黒土地帯およびロシア南部を襲った。

これによって,春播きの一部が被害を受けたが,その中心は,果物・漿果,および野菜であり,穀物にはそれほどの影響を

与えなかった。もちろん,穀物播種の一部も壊滅したのだが,寒波にともない降雨がみられたため,「昨年[2015年]の

ような寒波も降雨もない状態」よりは,「好ましい」と評価されていた。このような状況を踏まえて,2016年5月に農業食糧省は,

本年の収穫を7000万トン台との予想を発表した。

 

広い平原に小麦、大麦、ライ麦などの穀物の緑の波が広がっている遅蒔きの植物達。

うまく育って欲しい、その事だけがみんなの願いである。

この時期の降雨が作物の収穫に最も大事なのだと教えられる。

 

「軍では何を操縦していたんだ?トラクターの運転は出来るかい?」

「練習の時間さえあれば。」

 

特殊な操縦技能を要す訳ではないが、耕作鍬の立て方や角度。

運行スピードには慣れと勘が必要でなかなか難しい。

石をはじいて刃をこぼせば、今後の耕作計画に支障をきたす。

 

「軍のパイロットといっても、所詮16歳の小娘だから、あまり無理をさせられないな。」

「そうだなあ。こんなきゃしゃな娘にあまり重労働はなぁ。」

「大丈夫です。もっときつい事もこなしてきました。大人と同じ様に仕事を与えて下さい。」

 

値踏みされている。ここの生まれとはいっても、基地育ちの都会者だ。

だが、信頼を勝ち得るまでは、仲間として扱ってはもらえない。

食べるだけの為に皆必死なのだ。

 

人間に都合の良い計画に反して実際には穀物生産地区、ドイツ東部からポーランド、中央黒土地区,

北カフカース,沿ヴォルガで記録的な120年ぶりという旱魃となった。7月上旬の時点で,220万ヘクタールに

おける秋播きが壊滅し,150万トン以上の穀物が失われたとみられている。旱魃の高温は,イナゴを大量発生させた。

イナゴは西シベリア・ウラル経済地区地方を中心に被害をもたらした。7月上旬の農業食料省の報告によると,

00万ヘクタールの播種がイナゴによって「食い尽くされ」た。春播きに関しては,状況はさらに深刻であり,

ライン以西、モーゼル、ヴォルガ下流およびカルムィキヤの収穫は「経済的な意味をもたない」ものとなるであろう

との予測が出された。これらを踏まえて,農業食糧省は,7月に先の7000万トンという予測を「最良の場合で4000〜4500万トン」

と引き下げる声明を行った。

このような被害の発生には,サードインパクト後の農薬不足・耕作水準の低下も影響を与えているものと考えられた。

 

夏小麦の刈り入れ。私もコンバインを駆り、脱穀作業に不眠不休で働いた。

しかし、悲しいまでに小麦には実が入っていない。

次第に焦燥の色を深める人々。昨年の小麦備蓄は、この村には、ない。

さらに、家畜を処分し穀物を確保する。小麦の配分は1/3に抑えられた。

何としても冬小麦の取り入れまで生き延びなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

飢餓が襲いかかってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アスカちゃん、帰ってきたとたんに大変だね。これをお食べ。」

 

小さい頃の私を憶えていた、クリーネのお母さんが数キロのジャガイモを分けてくれる。

素人の私がいくら私有の畑を引っかいても殆ど何も収穫できないのを知っているのだ。

昨日、何も食べていなかった私は本当に嬉しかった。

 

「困ったら、また言っておくれよ。ジャガイモだけはいっぱいあるからね。」

「ありがとうございます。…あの、…クリーネの調子はどうですか。」

「あいかわらずなのよ。せめて薬があればねえ。」

 

ここに帰って来た日の夜。私はお隣を尋ねた。隣家のおばさんは、

私を抱きしめて何度も何度も繰り返した。

 

「アスカちゃん、アスカちゃん。良く帰ってきたねえ。可哀相に、可哀相に。」

 

それから、延々と昔話を聞いた。クリーネにも会った。彼女は病気で寝込んでいた。

いまさらだったけれど、クロスの御礼を改めて言った。クリーネは頬を染めて笑ってくれた。

5分も話すとクリーネは咳き込み、横にならざるを得なかったが、昔のままの優しい子だった。

おばさんはクリーネが喘息ではなくて、結核である事を教えてくれた。

 

「結核?今時結核ですって?」

「そうなの。セカンドインパクト以降はすごいのよ。栄養状態も悪いしね。」

 

「わたし、基地にいってきます。軍属なら分けてもらえるかもしれないし。

私は一応退役士官だし、可能性があると思うんです。」

 

政府からの薬品供給は都市部に傾斜している。人口の少ない農村部の患者はどうしても

後回しになるのだ。診療所の医師はいつも夜遅くまで薬品申請書を書いているが、微々たる

量しか届かないのだった。

私は唇をかんだ。

(「そうか…基地の外は地獄…。私は基地とその周りの軍事都市しか知らないから…。」)

 

私の心にあの、堅信礼の小さなクロスが浮かんだ。

 

 

 

つい先日、日本から届いた荷物。細い桜の木や、本や、服。その中に赤いオートバイがある。

ガソリンを近所の農家で分けてもらい、エンジンをかけた。

私は、シュタインベルゲンの空軍基地に向かった。そこには私の初期教育を担当してくれた、

コレツコ主任医療教務官がいる。彼を頼ってみよう。

 

当時医療教務官だったDr.コレツコは、基地の医療センター長になっていた。

しかし彼は私の頼みを聞くと、暫く考えて、こう切り出した。

 

「残念だがアスカ、我々には余力が無い。リファンピシンはいまや貴重品だ。

我々でも自由には出来ないのだ。退役将校たる君が使用するというなら話は別だが。」

「軍には占領地軍民救済用の薬品が使われないまま眠っているはずです。

使用期限が来て破棄されるだけの薬品の予算を取っているではないですか。いまどこを占領しているというのですか。」

「もちろんそういうものがある事は私も了解している。しかしながら予算のついた医薬品を横流しすれば

、私だけでなくこの基地全体の不正になるのだ。わかってほしい。それに、一人の為に薬品を出せば、

他の多くの人たちにどう申し開きをするというのだ。」

「私にとって、大事な事は政治家のように万人を見る事じゃありません。

私は私の友人の為に私の出来る全ての力を注ぐだけです。

私がもし彼女の事を大勢のうちの一人としてみれるなら最初からここに来はしなかったでしょう。」

「アスカ、きみは変わったな。友人というのかね、その隣人の事を。」

「…たしかに、日本に行く前の私なら、たいへんね、とだけ言っていたかも知れません。」

「日本が、君を変えたか?」

 

 

 

「計算で人に接する事が出来るほど、器用な人間じゃないのよ。」

ミサトの声が聞こえたような気がした。

 

「何でこんな病気の猫なんか拾ってくるのよ。」

叫ぶ私。

「だって、見てられなかったんだ。雨の中でぶるぶる震えて。」

「目やにだらけじゃない、きったないわねえ。」

「僕が面倒見るんだ。アスカは黙っててよっ。」

温めたミルクを与え、目薬を差してやり、下痢をしたら片づける。

だけどすっかり良くなった1週間後猫はいなくなった。

「ほらみなさい。いわんこっちゃない!」

「いいんだ。」シンジは嬉しそうにつぶやいた。「いいんだ。」

 

 

 

Dr.コレツコは、後ろを向いて言った。

 

「とにかく、医薬品は渡せない。これは動かせない。」

「わかりました。失礼いたします。」

 

言い崩せない自分が悔しかった。

たった一人の自分は、こんなにも無力なのか、ただ無性に悔しかった。

私は敬礼すると部屋を出ようとして、ふと思い付いた。

 

「先生。医薬品の使用期限は約2倍の有効期間を持っていますね…。

それに、備蓄用医薬品は完全管理の中で保管されているので劣化は殆ど無い。」

「そのとおりだ。」

「今回の使用期限切れ医薬品の破棄はいつ行われるのですか。前は基地内の焼却場で

処理していましたけれど、処分の手間はいまでも大変でしょうね。」

「結構な量だ、全部焼却するには一週間はかかる。」

 

Dr.コレツコは、そういうと暫く考えこんでいた。

 

「東部地域診療所は君の住んでいる村の近くだったな。そこの医師に破棄を依頼したいのだが。

その事を伝言してもらえるか。もちろん一村で破棄しきれなければ他で破棄してもらってもよいのだ。」

「はいっ!!確かにお引き受けいたしました。コレツコ大佐殿!」

 

 

私は村に飛ぶような想いで帰った。

 

 

 

 

「クリーネ。起きている?」

「あ、アスカ。帰って来たのね。」

「医薬品の供給に便宜をはかれないものかどうか、空軍基地に頼みに行っていたの。」

 

クリーネは優しく微笑んだ。透明な笑顔。私はレイの寂しげな笑顔を思い出す。

彼女は手を伸ばして、私の頬にふれた。

 

「あんな遠くまで、こんなに冷たくなって…。」

「友達でしょ。クリーネ。もうだいじょうぶ、うまくいったのよ。基地の知り合いがうまい手

を考え出してくれたの。良い薬を使えば、あなたもきっと良くなるわ。

あなただけじゃない、東部地域一帯は医薬品の供給に関してずっと楽になると思う。」

「さすがはアスカね。私にはとても出来ないような事を軽々とやってのけるんだから。」

 

 

クリーネはもう一度微笑んだ。

黒い髪と濃い緑の瞳。さみしげな笑顔。

クリーネ…元気になってね。

そのとき、レイではなく誰かの顔がだぶった様な気がした。

 

 

 

 

秋がやってきた。

美しいツバンティッヒブルクの紅葉を見るゆとりも無く、村落の人々と必死に泥だらけになって働く毎日が続く。

共同農場の秋播きの小麦は春先からの死命を分ける重要な作物である。

雪に備え、りんごや桜の木に雪囲いをする。

ジャガイモも、ネギも、凍らせない様にひとつひとつぎりぎりまで深く埋め込む。

ヤギを飼い、物置を改造して畜舎を作った。

これで私のささやかな畑にも肥料をやる事が出来る。鶏も何羽かを一緒に飼う。

近くの野原に行き、クローバーを刈り、雑穀を買い込み、屋根に干す。

幾度も幾度もこれを繰り返して冬の餌を作る。まきを割り、家の裏に軒下まで積み上げる。

収穫を地下室に貯える。やる事はいくらでも山のようにあった。

共同農場で働く合間にこれらの仕事をする。

私の手は豆だらけになった。

たまにみんなの為に近くの都市までお使いにオートバイを駆る。手紙、小荷物、簡単な買い物…。

中古のサイドカーをつけ、荷物置きにして走り回る。

医薬品の一件以来私はすっかり村に溶け込む事が出来たようだ。

クリーネのお母さんが、事ある毎に私を村の集会や共同購入の寄り合いに引っ張りまわしてくれたのも

良かったのだろう。

毎日がものすごい勢いで過ぎていき、ある日雪が舞い降りてきた。

 

 

朝、目が醒めると厚い雪が家の周りをすっぽりと覆っていた。

 

(「今日からは、朝寝てられるんだ…。」)

 

寒暖計は−5度を指していた。見ると部屋のストーブの火がすっかり消えていた。

 

(「気を付けないと…。火を絶やすとここでは凍えちゃうもの。」)

 

コークスの配給は僅かだった。一人暮らしは無駄が多いし、どうしても老人や子供のいるうちが優先になる。

クリーネのお母さんが冬の間だけ一緒に暮らそうと言ってくれたけど、ぎりぎりまでは自分で頑張りたかった。

病人のいる家に甘える訳には行かない。

熱帯のような日本になれていたのでこの寒さは正直こたえる。

貴重品のチョコレートを出して、ベッドにもぐりこんで少しづつ食べる。

 

(「お休みになった、お祝い。ね。」)

自分に乾杯。良く頑張ったわね。流石は天才アスカちゃん…。

 

「シンジがいれば、全部押し付けてやるのにな。」

 

声に出して言ってみる。

いるはずも無いのに、返事を暫く待っていた。

なぜ…、急にあいつの事を思い出したんだろう。あいつとは決別したのに。

私は、あいつに何もしてやれないのに。

あいつは私を助けに来てくれなかったのに…。

 

あいつは私を…

思い出してしまう。あの家族ごっこの毎日。

あいつの微笑み。あいつの気遣い。

やさしかった、あいつ。

いらいらをぶつけてばかりだった私。

 

頭から布団を被った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪は一日中降り続いていた。

 

冬の、生きる為の戦いが始った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢のように通り過ぎた季節

今はただあなたの幸せを祈って歩く

大地はるかにしずむ夕日 赤い光 空に舞い踊る私の翼

マーラよ

子供の命の守りの女神よ あなたに貰った命を私は生きる

だけど幸せは 私たちが見出すもの

神の贈り物でなく

昨日には戻れない でも明日はかならずやってくる

この翼の限り 飛び続ける

いつの日にか 定められた胸の中へ

大地はるかにしずむ夕日 赤い光 空に舞い踊る私の翼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<僕のわがままな恋人3 終>


 

後書き: 時間が少し戻ってアスカのドイツへ戻っていた間の事を書きます。

変な書き方になりますがお許し下さい。

日本に戻ってくる前、アスカには何があったのか。ずいぶん感じが

変わっているので、その辺を書いて欲しいという要望を戴いた事も

理由の一つです。

最後の歌は、このドイツ編のテーマソングです。

イメージ的には生き物地球紀行のエンディングかな。

つづきがあります。それも今書いてます。このお話に関しては特に

感想が欲しいので宜しくお願いします。

 

<こめどころ>


好評連載中のこめどころさんの作品、”僕のわがままな恋人”の第3話を頂きました〜(^.^)

最悪の結果に終わってしまったサードインパクト・・・・

互いを傷つけ合う事しか出来なかった二人は、別れるしかなかった・・・いや、それしか選択肢が無かったのだろう・・・

あの萌える様なお話のプロローグ

何がアスカ様を変えたのか、何がEOEの後のアスカ様を支えたのか、

こめどころさん!続きがすっごく楽しみです。

 

悲しい結末から、萌える作品へと変える手腕の持ち主こめどころさん。

皆さん、こめどころさんに感想を書いて、続きを読ませて頂きましょうね♪

こめどころさんへのメールはこちらか、掲示板にお願いしますね♪



この作品は、もきゅうさんのWebサイト、太(いぬ?)に投稿したものを、公開サイトを当サイトに変更したものです。

コメントはもきゅうさんが公開当初につけていただいた物です。

ホームページに戻るぼくのわがままな恋人こめどころ作品へぼくのわがままな恋人4感想くれるとうれしいな