抜錨 10 最終回

     『柳絮』           こめどころ







――混沌の中/ 梅花は雨に 柳絮は風に ただ揉まるるばかり






目を開く。そこは緑の芝生に青いプールの見える僕のうち。中2階のリビングだった。
外に向かって開放されたテラス。
階段から続く大きな窓が開け放たれ、プールの水面が揺れている。
眩しさと疲労感からすぐ目を閉じた。
遠くで呼ぶ声がした。僕が目を開けたのに誰かが気づいたんだ。
薄く開いた目蓋の隙から白のカッターシャツが見えた。
アスカの顔。
手に握り締めているカッターシャツ。
焼け焦げと、肘にはオイルの染みの有る――僕の。。


「シンジ。シンジ起きて。」


なんなの、眠いんだよ。


「ちょっと、起きなさい。シンジ、起きてっ。」


いやいやながら起き上がろうとして、足に辛うじて巻きつけられているタイに気づく。
昨夜来の混乱がようやく脳裏に蘇った。

そうだ。
U字溝の中を這いずって進む。近くの神社の森と藪を伝い、イタチか何かの様に道を横切り。
壁の陰伝いに開け放しになっていた、うちのガレージに転がり込んだのを思い出した。
そこで、急に気が抜けて動けなくなった僕。
君は、音を立てぬ様、周囲を警戒し見回しながらシャッターをゆっくり降ろしたんだっけ。
オイルに汚れた洗車ホースに口をつけ、水を浴びるように渇きを癒した事。黒く煤けた顔を洗った事。
滲んだ血を洗い流した事。
そして脱いで渡したシャツを絞って、君が顔や首筋を拭っていたのを思い起こす。
顔をふいてもらったね。暫くじっとしてから立ち上がろうとすると左足に鈍い痛みが走った。
骨や腱に損傷はないようだったけれど、気づかぬうちに、どこかでひどく打ったのだろうか。
僕らは助け合ってやっとの思いで家に入り、そして中二階のリビングに這い上がった。
この部屋は表から一番見えづらい。それでも明かりはつけない。
ほとんど腹ばいに近いほどの姿勢でしか動かない。
この街ではどこにどんな監視の目があるかわからないからだ。


そして今、僕は上半身裸のまま絨毯の上に転がっている。身体の横にめくれ上がっている毛布。
起き上がろうとしたが、たちまち身体中が軋むように痛んだ。とても立ち上がる気にはならなかった。
だが、アスカは痛みをこらえ、眉根を寄せながら、顔の上まで這いずって来た。
耳元にやっと呼びかける。僕が目を開けるのと同時に胸の上に崩れた。荒い息。胸に立てた指が肉をつかむ。
そのままもう一度、くぐもった声で僕の名を呼ぶ。
その、彼女の声が僕の身体に沁み込むと、緊張がほぐれ、安心する。
アスカ。僕のアスカが身体の上にいる。
僕の想い人である少女がうっすらと汗ばんだ身体を重ねている。僅かながら顔を上げて僕を見た。
恐らくさっきまでの僕と同じように、今の自分がまだ完全には把握できないでいる瞳。


「シンジ。」


眩しそうに目をまたたかせ、アスカが胸元から僕を見上げている。


――ああ、まだ半分は夢見ているんだね。


「シンジ、気が付いたの?あなたのうちの中よ。」

「え?ああ、そうか。そうだよね。」


ぼんやりとした声で応えている自分の声。身体の外で遠くから聞こえているような声。
やはり、まだ頭の中に霞が掛かっている。


「あたしよ、わかる?」

「うん、大丈夫だよ。」


彼女は毛布を擦るようにやっと腹ばいのまま動く。そしてやっとの思いで手を握り合えた。
上半身の衣服は半ば裂け、じっとりと肌に張り付くように水と汗で湿っているままだ。
あれからまださほど時間は経っていない。身体が自分でわかるほどに、ひどく汗臭い。
U字溝の中を這いずった、汚い排水の匂い。アスカも髪が解け土と埃に塗れ、ひどい有様だ。


「そのカッター、羽織ったら。」

「うん。」


僕らのありさまとは逆に、いつものように日差しが射し込んでいる庭の、静かな朝の景色。
まだ残っている朝方の低く靄が、ゆっくりと流れながら次第に消えていく。
それは、目の前に確かに有るのに、遥かにかすむ幻影か何かのように遠くにあるものに感じられた。

緑の芝生、青いプール。陽射しに眩しい真っ白なテーブルとデッキチェア。
あそこで泳いだり、ふざけあったりした事。


――ああ、まだアスカにあの楓の木のシジュウカラの巣を見せていなかったな。



ピシ、ピシ、ピシ、ピシ……



のどかな音を立てている朝の水遣りのためのスプリンクラー。
青い芝生と深い木立を背景として、輝く水飛沫がゆっくりと回転していく。
その細かい水の霧がきらきらと風に流れていく。
芝生がその霧を浴びて輝き、野鳥がその直ぐ外で戯れている。

静かな、うらうらと過ぎていく早朝の時間。

いつの間にかアスカは壁に背を持たせかけ、殆どぼろのようになった衣服を脱ぎ捨てていた。
そして、その裸身の上に、僕のカッターシャツを羽織った。
何か思い出しているかのような、呆けた表情で、黙り込んだままで。その視線は遥か遠くに運ばれていて。
白い裸体の少女は、壁に寄りかかり、僕を抱きかかえている。
その柔らかい下腹部と弾む腿の上に。見上げる優しい曲線、白い胸の膨らみ。
君の柔らかな手が僕の頭を撫でる。


「何か、思い出してるの?」

「初めて男と迎えた朝のことを思い出してた。」


思わず引き攣っただろう僕の表情。
だけどアスカは手を伸ばし僕の頭を引き寄せると、両頬を手のひらで包んで押さえつけた。


「男の身体中に幾筋もの爪痕に滲んだ血が固まってかさぶたになり、自分の左の頬も腫れてひどく痛んだ。
あたしの手首には紫色に痣が残り、膝は擦りむけ、腕には血の染みた包帯が不器用に巻かれていた。
男の腕にも血だらけのワイシャツの袖が巻きつけられていた。一体何が起きたのかをすぐに思い出した。
自分の手から飛んだ細身のナイフが部屋の隅にあって、起き上がるとすぐ、そのナイフをつかみ上げた。」


アスカはまるで芝居の脚本を読み上げるような調子で話し出した。
震えた声が次第に平静になり、そして氷のように冷静になり人形のように無表情になっていく。


「その刃が朝日を照り返す。
ガラス窓に、そこにいる女の顔が映り、その口元に光が反射していて、それは次第に強張った顔を遡っていった。
その輝きが蒼い瞳に達し、眩しさにあたしは目を細めた。手に握った刃物を確認して。」

――振り返った。

「男がそこに横たわって見ていた。あたしの何も身につけていない後姿を、見ていた。見られていた。
自分はこの男に取りすがって自分を抱くように強要したのだったろうか。わからなかった。
それとも無理やり犯され、蹂躙され、下腹の奥深く、刻印を打たれたのだったろうか。
争いがあったことだけは妙にリアルに記憶していたが、その先の記憶は朧げになりはっきりと思い出せない。」

「その時、何を思った。」


その先は聞きたくなかった。聞きたくなかったのに僕は木偶のように呆けて尋ねていた。


「どちらにしろ、もうこの男に飼われていくしかないのだから――あたしを包んでいたのは、ひどく投げやりな思いだったわ。」

「飼われるって。君は、君は自由意志を持った人間じゃないか。」

「その事実があたしに与えたのは、支配される屈辱か思考を委ねた陶酔か。そのいずれかその何れもだったのか。
それが思い出せない。大事な事なのに思い出せないのよ。
その男の顔は、あたしの上に横たわっているその男の息子に、あなたに――シンジに重なっている。」


一瞬、アスカは吐き気を押さえるように呻き。唇を青くし、呟いたのだった。


「起きている時には、その父親とあまり似ていないのに、目蓋を閉じて眠り込んでいる顔はそっくりだった。
この顔の男に抱かれた事が、記憶の底に沈んでいる。それはシンジの方だったのかしら。
それとも、あんたの父親の方だったのかしらね。」

「…アスカ。」

「あたしは!」


僕の上に、アスカは逆方向に身を横たえる。僕の頭は君の腿とお腹と乳房に押さえつけられる。。


「あたしのためにシャツを脱ぎ捨てたシンジ。あなたの生まれたままの姿。その半身。
身体中にある生傷や痣はあたしを守るために身を挺した跡。この人は自分を愛してくれ人だとわかってる。
自分ヲイツマデモ飼ッテクレルト約束シテクレタヒト。」


アスカの肩が、本当に小さい。――遠い。


「それなのに自分は――
心底、あなたに愛を誓っていない。何回も忠誠を誓った言葉の直ぐ裏に、偽りの想いが張り付いている。
――その資格が有るの。赤心を口にする資格があるの。」


その唇は、声を出さぬまま僕の傷に触れ、その傷のまだ固まりきっていない血を舐め取った。


「――シンジ。
あたしには、もうあなたしかいない事がわかっているのに。その事をこんなにも望んでもいるのに。」


その、血のついた唇でアスカは僕に口づける。


「あなたの、疲労と渇きからひび割れたまだ薄い唇に。シンジの想いに自分が染みこんで行く事を願ってる。」


身悶えして、アスカはゆっくり立ち上がった。そして僕の前でカッターシャツを翻し、身体を回す。
その輝く肢体。月のような丸い胸と、曲線を描く腰と丸い腹部、輝く大腿部と淡い翳りに僕は目を奪われる。
これは一体なんだ。これもアスカの一面?
それとも埋もれていたアスカの別の人格?幾つもの人格が次々と演じている戯曲なんだろうか。
くるくると変わる君の表情、君の声、君の動き。幼子のような笑み、妖艶な娼婦の笑い、恥じらいと慎み。
放縦と淫靡。誘惑と惑いの言葉。清純と艶美。


「自分から離れないように。いつまでもあたしに囚われているようにと願ってるから。」


ここにいる君は、僕のアスカなのか? 
それとも、引き裂かれた君の心の切片なのか。あるいは君の全てなのか。


「絡みつく――絡みつくの、あたしの髪はあなたに。あたしの指はあなたに。」


歌うように語るまるで舞台の様な君の言葉。艶かしい唇が僕の唇を包み、唾液が僕の唇を癒す。
僕のひび割れた唇に染み、そこを柔らかく湿らせていく。柔らかな胸の半球が僕の胸で潰れる。
乳首と乳首が擦りあわされる。僕は寸前まで昂ぶり君の柔らかな脇から続く腕の内側を噛む。


「ああ…アスカ。」

「――あたしは求めている。ゲンドウさんの身体と、例えどのように邪まなものであろうとその歓心を。
そしてシンジの、あなたの想いを、少年の純粋な愛を。その純粋さ故にあたしを切り裂くものであっても。
どうして、どうしてなのっ。何故こんなにもあたしの心が揺れるの、胸が引き裂かれるのっ。」


薄汚い裏切り者なのだ、とアスカは告白する。その指がズボンの金具を外す。
淫売――という言葉が、黒い水面に波紋を描く。黒い波紋。僕を試すように揺れる。
アスカの唇は僕を離さない。その波紋は自らを捕らえる縄のように思える。揺れ惑う自らの心の様にも。

突然、抱きすくめられた身体。かすかに開かれた僕らの唇が離れる。掠れたつぶやきが互いに伝わる。


「シンジ。」

「アスカ?」


――黒い瞳があたしを見つめている。その瞳の光がたちまちのうちにあたしを濡らす。
――声までも湿らせ応える。
――ああ、あたしはもう逃げ出せない。シンジを離せない、シンジから逃げられない。


「シンジの命を――あたしにくれる。」


いいよ。――それこそ。僕は、君と同じものになりたいんだ。
互いに手のひらを深く傷つけてその手を固く結びつける、古代の結婚の儀式のように。
血が、命や精神と結び付けられ信じられていた時代の――


「君が僕をどう思っていようとも。」

――うん。

こっくりと肯くこの可憐な娘を、僕がどうして離す事ができる?手折らずにいることができるだろうか。
君を手放す時は、僕が、この命を手放す時だ。
何故だろう。なぜこんなにも愛おしい。なぜこんなに言葉が軽い。
金の柄の細い鋭いナイフがこのリビングの机の上に置いてある。それが僕の目に入る。
そこから意識が離れない。


「例えいつ君に命を奪われても構わない。」

――あのナイフで、僕の内臓をえぐればいい。


僕の手がアスカの頭を支えるのと同時に、頭が巻き取られるように彼女の身体に抱え込まれた。
少女の華奢な長い指が髪に差し込まれる。
それに応えるように、アスカの腰を抱きしめる。
弾むアスカの肉体。

アスカは熱い息を吐く。それは、誰のために熱くなった吐息だろうか、僕にはもうわからない。
それは誰への想い。誰の口にした言葉。男を捕らえるために熱せられた甘い吐息?
捕らえてくれるようにと呼ぶ鳴き声。焦点を結んでいない瞳が僕の上に留まっている。
そして、僕は君を抱き締める。ごく普通に、ごく自然に、まるで兄妹のように抱き合う。
坩堝の中の金と銀のように――ひとつに。

――今はこうしていられさえすればいい。




 僕は腕の中に抱え込んだアスカのずっしりとした肉感を、皮膚は冷たく、吐息は炎のように熱い少女の肉体を
愛おしいと感じている。冷たい身体を抱きしめ、その皮膚の下から次第に湧き上がって来る男を狂わす肉体の熱。
求めているのは少女の心と愛である筈なのに、その拠り所は結局少女の肉体からしか伝えられない。
そうでしかない。心の確認は穢れた肉の契りによってしか認められない。
どんなに歯噛みしても、どんなに言葉を繰り返しても。
その君の心を手に入れられず、つかんだと確信した瞬間、その結晶は直ぐに崩れ、僕の指の間から零れ落ちていく。

心は見えない。思いは確認できない。真実を味う事は出来ない。安らぎの日はいつまでもやって来ない。
胸を引き裂いても、血を浴びても肉を喰らっても。君さえそこにいれば、それだけで良かった筈なのに。
心を狂わすアスカの香り。凶暴な想いと抱き潰したいほどの愛おしさ。君を、信じたいという、想い。疑い。
疑い、想い、疑い、想い。
その二つの想いに狂いそうになりながら、どれほどアスカを貪っただろうか。僕はとうに発狂していたんだ。

背骨が砕けるほどきつく抱きしめた。少女の悲鳴に浸りながらさらに貪りつくした。僕の狂気が弾けた刻。
顔を背けたくなる程の辱めを与えた。愛しているほど惨く扱った。皮膚に歯を立てて滲んだ血を啜り上げた。
そうする事が、唯一この蒼い瞳を僕が手に入れる手段だったんだ。
悲鳴、助けを呼ぶ声、哀れみと赦しを乞う、惨めなアスカの姿。
少女をもっと傷つけ、削ぎ取った肉片を噛み締め、噛み千切った首筋の血を吸い尽くせば満足できるだろうか。
いや、そんなことは無い、それではまだ足りない。足りないんだ。

アスカははそんな僕の想いを十分に知っていた。
知っていながら僕に抱かれる都度、僕の父に抱かれる夢もいだいていた。いだきながら抱かれていたんだ。
自分の股間に割り入って来る男の部分に、僕と父さんの、2つの夢を抱いて喘いでいたんだ。
僕の匂いと父さんの匂いの双方に酔って。
その背徳心が彼女の心を割ると同時に彼女の身体を裂き、愛を高ぶらせる。その官能がアスカを女に仕立て上げた。

アスカは、香油を神に捧げるかのように僕の身体に垂らしたことがある。
それを身体中に塗り広げていった、指と舌を使って。僕の身体の全てに。君の全ての場所に。
身体がうねる度に、官能の喜びが声を上げるほどに高まる。こんな事をどこで知ったというの。
それは父に捧げるのと重なる所作。
同じ香り、同じ想い、同じ煉獄の炎を、アスカは体内で滾らせているのに違いないんだ。


「赦して、赦してっ、はあっ。」


喘ぎに混じった少女の心。その裏切りに僕は長いこと気づかないでいたんだ。気づいていなかったって?
それは嘘だ。僕はそんなことはずっと前から知っていたんだ。
それは僕自身が、文字通り赦しを希い、業火で焼かれるための想いだった。

僕を迎え入れ、抱かれながらアスカは燃やされる自分を思い描いて絶頂を迎えていたんだ。
それと同様に、僕はアスカの上でアスカの苦痛を見ながら自分が燃やされていく事を、心底願っていたんだ。
白く、暗がりで身体をうねらせ、腰を浮かせ、首を仰け反らせて、両肢で僕の腰をきつく締め上げながら。
煉獄の苦痛と天上の愉悦を重ねていたアスカ。それと一緒に僕も、と。







僕らは、そのまま長いこと、中二階の部屋に寄り添って倒れたままでいた。


「アスカ、この街を出よう。
――この街にいる限り、ケンスケの言うとおり僕らは誰かの支配下に置かれ続ける事になる。
君の作られた真実も、僕の作られた真実も、生きる人としての作られた思いも、何もかも失った事への
見返りとして生かされているこの街から。」

「でも…でも、ここから離れて私達は生きていけるの?」


恐怖が一瞬でアスカの目の輝きを奪った。


「ここでこのまま、君を見失ったまま生きるくらいなら・・・幻覚と誘導のもとに惑わされ続けるくらいなら。」


アスカの唇がわななく。


「シンジ。ここを抜け出して生きる事は殆ど可能性の無い事なんだよ。ここは自然豊かな日本ですらないのよ。」

「幻想と幻覚をベースとして構築されたバーチャルの実験都市だ。そのくらいは予想していたよ。」

「ここの真実の世界は、世界で最も厳しい厳寒の乾燥地帯よ。『外世界』は出たら最後戻ってこれない所なのよ。」


枯れ木のように砂に朽ち果てた自分の姿をアスカは思い描いているのだろうか。
同様の恐怖が僕の心の中にも流れ込んで来る。目の前一杯に広がる生命全てを拒絶する外の世界のイメージ。
僕はしっかりと君の両肩をつかみ、君をを見すえ、君の言葉を待った。分の悪い賭け。
多分、僕はケンスケの最後に残した言葉の意味を知る事になるだろう。
少女は相変わらず美しい。誰よりも美しかった。僕にとっての最初のアスカは僕の憧れであり指標だったんだ。

このアスカを、失う?

テラスから差し込む光がその赤い金色の髪を透かし、風がその髪を乱す。半ば目蓋を伏せ、髪を押さえる指。
理知的な広い額と意志の強そうな唇、真っ直ぐな青の視線。光に透き通る頬のうぶ毛。
すらりと伸びた白い首筋とうなじ。まぶたを閉じ、何か考えている時の長い睫。高く跳躍する足腰の優秀なバネ。
憂いを含んだような表情と爆ぜるような快活な笑顔が一緒に棲んでいる。

――僕は、そんなアスカを眺めていられたら幸せだったはずなのに。

僕は真のアスカを得るか、さもなければ倒れるかのどちらかを望んでいる。死を持ってしても。
刷り込まれた恐怖がアスカの美しさを奪う。
少女をアスカとして成立させていた強い意志が挫け、弱々しい薄青い色の瞳から涙が流れ落ちる。
凛とした責任感と勇気が抜け落ちると人はなんてだらしない表情になるのだろう。


「・・・ああ、ごめんなさい。わたしとても行けない。
あたし、恐ろしいの。死ぬ事が怖い。死にたくない。ゲンドウさんから切り離される事が恐ろしいの。」


この少女を失う?


アスカの顔は恐怖に歪む。僕は口惜しさに唇を噛む。自分はやはり父に負けるのか。
羽根を自らの嘴で引き毟る、自ら飛ぶ事を放棄する、自ら飼育される事を選ぶことで子孫を残す戦略。
平伏する事で生きていく生などいらないと言える人間は、僅かしかいないということの真実は、あらゆる事への執着。
例えそれが取るに足りないことであったとしても、人は都市を捨てられない。
自らを自ら構築する事への困難の予想に、最初の一歩すら踏み出せない程の日常への執着。
そして善意から、赴こうとする隣人をもまた、自らと同様に絡め取ろうとする。
日々の貧しさから不思議と逃れられず、必死で今を生きている日常が全てにヤスリをかける。

この娘はもうアスカではないのか。もともと架空にあった、僕の中だけに居た、僕だけのアスカだったのだろうか。


「僕とは行けないというの。」


アスカは、おろおろと薄笑いだけを口元に浮かべ、何とか僕の怒りを正面から受けまいと卑屈な笑いを浮かべていた。
僕が顔を寄せるたび、その青い瞳を見開き、恐怖の表情を浮かべ、身体を引いた。あいまいな表情。
白いカッターシャツで身体を覆い、身体を両腕で抱きしめて、僕の視線を避けようと縮こまる。


「あぁぁっ! ごめんなさい。ごめんなさい!あたし、怖い。怖いのっ。」

「僕を…選べないんだね。」


頭を抱えるようにして髪を振り続けるアスカ。絶望の時が刻まれる。僕のアスカは突然消えてしまったんだ。
少女にとって、男は胎盤であり、日常はそれと自分を繋ぐもの。
あらゆる都市生活者にとって環境の全ては自らの血と引き換えに手にする利益なのだ。
享楽と安心。
巣を与えられ、職と、所属すべき背景が存在するところ。
意識した事のなかった軛(くびき)。身体中に纏わりつく配管コードとチューブ、閉じ込められた世界。
檻の中に引き戻される、哀れな実験体。だがそこに居たいと望む自分を否定できない。拒絶できない。
震えている少女の姿。がちがちと歯を鳴らしながら僕を見上げている怯えきった、かわいそうなアスカ。


僕は、君を失う?


僕は泣いた。誰よりも自分を哀れんで泣いた。そして、消えてしまったアスカを哀れんで泣いた。
アスカの身体の上にその涙が落ちた。
あの誰よりも高い目線で世界を見ていた、何者にも屈しない、凛々しく背筋を伸ばし、颯爽と歩を進めていたアスカ。
君は、もうどこにもいないんだね。僕の愛したアスカ。


沈黙。


「そうか――父さんを…やっぱり父さんを選ぶんだね。」


ナイフを引き抜き、その刃を自分の頚動脈に押し当てた。






人類はこのような実験都市を世界中に数百もの単位で作り続けてきた。
その地域の民族や社会を混合させ、人類生存の可能性を探っていたのだ。
私はその先鋒として国際的組織の支援を受け、命令の執行を続けてきたのだ。

その中で、ある人間は特異な反応を示した。

その人間たちの集団はどんなに負荷をかけても、不当な政治的圧力をかけても反発を起こさない。
元々政治的な闘争本能や関心が抜け落ちているのかと思う程だった。
全てを呑み込んでしまう程の奈落。
底知れぬメンタリティの暗黒。
何も考えないという事を苦しみと思わない、特異な人格が多く存在する。
反社会という看板を掲げる自らを、選抜されたと考える選民思想に侵されたことのない均一社会的思考。
そこに有るのはせいぜい隣人への妬みと、性蔑視、僅かな差別意識程度に過ぎない。
差別ですら区別としか考えずにいられる、独りよがりの平和な世界。
それさえも現実的な力の前には直ぐに跪き、省みて恥じる事をしない。

感情的なものにせよ理知的なものにせよ。理想主義的なものにせよ現実主的なものにせよ。
その集団の思考パターンは実に社会的操作を施すのに適していたのだ。この集団はいったい生きているのか?
その暗黒に投げ込まれたヒトの心はどこに残る?いや、それに属する人々よ。お前たちは絶望する必要は無い。
そうであるからこそ、我々はその中に希望の兆しを見出すことができたのだ。

逆に、人類が真に一体化するのを阻んでいるのは何か。
例えばインドヨーロッパに広く分布するアーリアンやコーカソイド民族の自我自律行動の高さにあると。
そういう事かもしれないではないか。
自律行動を取っていると信じつつ、自律決定などしていない状況であっても、理屈さえ通るのであれば満足できる。
その人々にとり、事象は事実公平である必要は無い。ただ公平に「見える事」こそが重要なだけなのだと、
そう言われる通りだろう。
一文の警句には一見した以上の意味が含まれているのだ。
比喩の文言を論じたところで意味がありはしない。

人と人との関係にはちょうど良い距離があるのだという事を表現するためにだけ使われているヤマアラシのジレンマ。
だが――例えそれが最初は仕組まれた出逢いであったとしても。美しいと、凛々しいと感じた心に存在したものは、
紛れもなく、対象の真実を見抜いて震えた自分の心であった。『出会い』だったという確信。
その出会い。直感的想いが、例え激しく血を流し合うことだったとしても。
少女を抱きしめずにいられなかった、愛さずにいられなかった、その衝動が本当の理由(わけ)。

その選択に後悔も恐れもなかった。それが出会うということの真実。その真実を守りたいと私は願っている。





「あ、あぁぁぁぁぁ〜〜っ!」

「やめてぇぇぇっ!」


きらめく少女の髪。僕の絶望の叫び。振りかざしたナイフ。壁に飛び散った血飛沫。
アスカの目が真っ青に輝いている。僕のアスカの瞳の輝きがそこに戻っていた。


「だめぇっ!」

「離せっ!その手を離せっ!」

「いやよっ!死なせるもんですかっ!」


君の手はナイフの刃を直接つかんでいた。振りかざした刃が二の腕を傷つけていた。
血が飛び散っても、手のひらがどうなっていても、アスカは手を離さなかった。奪い合いになった。
床を転げまわる二人の直下で、突然激しい音と共に玄関の巨大なドアが破られた。
治安警察が突入殺到し、各部屋を開いて回る。


「碇シンジとアスカ・ラングレーを確保せよっ。」


アスカは僕のナイフをもぎ取ってそこにうち捨てた。
額を拭った手から零れた血が、君の顔に凄惨な表情を作っている。
手のひらからぼたぼたと音を立てて落ちる血潮。その血潮がアスカの手から腰や大腿部に流れている。
僕の手にも、腕にも、その血が伝わっている。


「あそこだっ!」


咄嗟にそのままの格好で僕らはテラスに飛び出した。表には既に非常灯が連なり、まばゆく回っている。
僕らを見つけた警察が屋根の下に駆け寄ってくる。


「シンジ、こっちっ!」


言うなりアスカはテラスの手すりを飛び越えた。
広い屋根の上を全裸のまま走りぬけ、ひさしを蹴って飛んだ。そこにいた全員が唖然としてる中を僕もそれに続く。
大きな水音と共に上がる水ばしら、プールの中に中2階からダイビングしたのだ。水中に潜ったまま周囲を見回す。
アスカはまるで白い魚か何かのようにプールの底に張り付いていた。そこにあった排出用のダクトの
開閉スイッチを押した。ゆっくりと開いていく巨大なダクトの排出孔。アスカは僕の腕を引き、その孔を
指差した。まさか、ここから。物凄い勢いで水は僕らを巻き込み、一気にアスカはその中に頭から突っ込んだ。
一瞬で姿が消えた。僕はそこに続いた。


「ぶはっ!」


どこかに投げ出された。検査用非常灯の暗い灯り。アスカは既にこの巨大な竪穴のステップを登り始めていた。


「シンジ、はやくっ!」


アスカの伸ばした手をつかんで最初のステップに身体を持ち上げた途端、竪穴に満ちた水が上昇を始めた。
渦巻く濁流がかすかな検査灯の明かりの中で物凄い音を立て、水量を増し逆巻いている。
アスカは一番上まで行くと別の流入溝の中を進み始めた。暗がりの中で左右に白いお尻が揺れる、その後を。

真っ暗な中をどのくらい進んだのか。所々にある恐らくマンホールのような蓋から漏れる明かり。
そこから漏れる外の音を頼りに20分ほど進んだだろうか。何の音もしないところでそっと蓋を押し上げる。
外からは朽ちかけた木の葉が流入溝の中に落ちてきた。恐らくどこかの民家の裏手だろう。
外に出ると5軒ほどむこうのやはり大きな屋敷の裏手だった。人気がない。外出しているのだろうか。
アスカの傷の手当てが必要で、何より僕らは下着一つ身につけていない。
石でトイレの小窓を破り、鍵を外し中にもぐりこんだ。

全ての椅子や家具には白い布が被せられていた。
部屋の中はそのままで、おそらく長い旅行にでもでているのだろう。僕らはやっと一息つく事ができた。
静かな部屋の中、ベッドに被せられた布でアスカの裸身をくるんだ。


「やっとシンジのエッチな目から隠せた。」

「なんだよそれ、真っ暗で何も見えやしなかったよ。」

「どうだか。それともあたしの身体が目の前でちらちらしてたから、すっかりぼーっとなっちゃってたの?」

「は、裸のままでプールに飛び込んだのは君だろ。しかも2階からっ。」

「たかが中2階よっ。あんたが愚図愚図してるからでしょっ。感謝しなさいよねっ。」


確かに、僕一人だったら逃げられやしなかっただろうと思う。台所で救急箱を見つけ、やっとアスカの手を
消毒してやる事ができた。ほんとに、君がいなかったらどうなっていただろう。


「全くひどい目にあったわ。うっ!痛いじゃないのよっ!う、うっく!」


アルコールをかけて、とにかく手のひらと二の腕の血を止めた。よくも女の子が声を出さずに我慢できるもんだ。
傷は結構深かった。本当なら縫った方がいいのかもしれないが今医者にかかるわけには行かなかった。
僕自身も足に深い傷があった。あの時は気づかなかったが発砲した奴がいたらしい。
肉が抉られたようになったところがあった。そこにもアルコールをぶっ掛け、火をつけた。ほんの5秒。
大声で悲鳴を上げる事だけはやっと堪えた。銃創ではしょうがない処置だった。
壊死組織を後で抉るよりずっとましだ。アスカは顔をしかめながらも歯を食いしばってその処置をやり遂げた。
お互いの傷口に強力な縫合代用テープと無菌パッチを張り、包帯を巻いた。これで応急処置はすんだ。
服は箪笥の中の物を借用させてもらった。
アスカは同じような体型の若い人のものがあったが、僕の方はだぶだぶだった。
声を押さえて笑うアスカ。
この辺りが屋敷町だと言う事が幸いした。警官隊は森に戸惑い、排水路を把握出来ていない。
いつまでもここに留まる事ができない僕らは、つぎつぎと屋敷間の壁を乗り越え、屋敷同士を区切る森を抜け、
屋敷伝いに移動していった。包囲を抜け、さらに遠くへ。
数日の後、流れてくるテレビのニュースで『僕ら』が生死不明のまま崩壊ビルの下敷きになった事を聞いた。
誰かが僕らを逃がす事に協力してくれたのか。庇ってくれたのか。


「ケンスケ、かな。」

「そうかもしれない。」


僕らは逃げ切る事ができた。





 さらに5日ほど後。僕らはその夜、焼却場のフェンスを乗り越えた。
不思議と警報装置も何も鳴らなかった。元々ここにはそんなものは配備されていなかったのかもしれない。
この行動自体が僕の脳の中だけで起きている幻想であり、バーチャルなのかもしれないと不安になるほど、
あっけなく僕らは長く続くフェンスを乗り越えた。
焼却場はいつかの雨の日のように相変わらず幾色もの炎を上げ、火の粉を噴きながら燃え盛っていた。
学校の非常備蓄の倉庫から持ち出した装備を背負い直し、暫く進んだ。
アスカも僕の後についてくる。同様の荷物も一応背負っている。
だけど、この先はどうするつもりなんだろう。僕は、彼女にもう一度その意志を確認しないわけにはいかない。
立ち止まる。アスカも立ち止まって僕の目を見つめた。


「アスカ、僕はこの街を出る。もう一度、君の答えを尋ねたい。」

「あたし・・・」


アスカの肩が震えていた。やっぱりこの事は別なのか。
この街から逃げられないように、君はインプリンティングされているのだろうか。


「シンジが死んじゃたら、あたしも…そんなに楽しい事、なくなるし。」


彼女の顔は、恐怖と脅えに真っ青になっていた。その足も手も、ガクガクと細かく震えていた。


「行く。あんたと、一緒に、行く。」


額にびっしょりと汗をかいて、アスカは言い、無理やり笑って見せた。


「本当に?」

「嘘をつくくらいなら、ここで別れてる。」


そう言うと僕と並んで歩き出した。
青い瞳が、今度は強い輝きを放っていた。そこには強い意志の力が篭っていた。
いつかの朝の、あの弱々しいアスカの答えとは全く違う。僕は慌てて君の横を歩き出した。
君は、僕と最初に会ったアスカ?


「だって、あたしが行かなきゃ、あんた、死んじゃうかもしれないでしょ。
どうせなら、その時その場所にいて見届けてやるわよ。見届けてやるんだから。」


そう言うと、おでこをぶつけるように君はしがみ付いて来て、僕らは後ろの草むらにひっくり返った。



僕の前に現れた、幾人ものアスカ。
その人格が僕と言う一人の人間に対して、最初は戸惑い、揺らぎ、次第に同じように対応する様になっていく。
意外だったり、驚きだったりした事が、次第に日常のなんでもない事になっていく。
僕自身もまたそうだったんだ。
幾人もに分裂していた、僕自身のばらばらな君への想い、ばらばらな決意、ばらばらな行動。
アスカと言う掛け替えのない一人の、その人のために、僕は自分の想いの視座を、自分の行動の座標を、
自分自身で定めなければならなかった。それは誰かからの距離を測って、定められるものじゃなかった。
それは定めてもらったんで、定めたんじゃない。
誰かに与えてもらっただけで、自分自身で築きあげたんじゃなかったんだ。

僕自身が、ここの一点と定め、そこから築き上げていくものなんだ。人があるから自分があるんじゃないんだ。
自分が有るから人があるんだ。自分を定める事で初めて人と向き合えるようになるんだ。
自分の形がないうちにどうして人と向かいあって、相手が自分を認識できるだろう。
互いに相手を認知できなくてどうして真実を語り合えるだろうか。どうして互いを信じあえるだろうか。
世界に生きていけるだろうか。守ってやれるだろうか。

だからだ。だから僕は父さんから逃げていてばかりいたんだ。
父さんと向かい合えなかったんだ。父さんの庇護下から抜け出す事ができなかったんだ。怖ろしかったから。
父さんが僕に与えてくれている物を失いたくなかった。抜け出そうとしては逃げ帰っていたんだ。

いつまでも、父さんの子供でいたかったんだ。


――アスカという夢を見ていたかったんだ。






人は産まれ落ちた瞬間から、人として適当な距離を必要とする存在だという。
互いの針で穿刺され合いながら次第に悟るその痛みに耐えられる距離が、共に暮らす為に必須だというのか。
比喩のヤマアラシは、現存しないヤマアラシ。実際のヤマアラシではない。
自然界のヤマアラシはいともやすやすと交尾をし、寄り添い、集団で固まって眠るではないか。

忌まわしい事柄に囚われていても、自分の心を信じきれず、呻き声を上げたときも。
互いに迷いながら疑い、互いを信じ切れなくなって手を離そうとした日にも、相手に背を向けたときでさえ。
眼球の中から相手の姿が消えたことはなかった。人は人を信じたいのだ。

比喩のヤマアラシ。
僕らにとってのヤマアラシは常に鋭い針を逆立てながらも、心地よい場所を独占し居続けたいと願う。
仮想のヤマアラシ。
自分を大きく見せたいが為の虚像を語る。毛を逆立てたヤマアラシは拒絶そのものだ。
拒絶同士の心地よい距離は存在しない。拒絶をやめる事とは、針の鎧を脱ぎ捨てることだ。
剣を交えながら親しくする事は現実にはできない。剣を治めなければ、互いの距離は怖ろしく遠い。

だけどまた、鋭い棘を手放したヤマアラシはすでにヤマアラシとは呼べない存在ではないか。
比喩の世界のヤマアラシ。
ヤマアラシである事を放棄しなければ仲間と寄り添って寝ることも出来ない哀れな存在。
だが実際にはどうだ。

生命とは、いまのままの有りようを、そのまま存続し続けたいもの。
日常を変化させれば動物は死ぬ。形骸のみを残し、その種は断絶する。
生き延びるために、ヤマアラシはヤマアラシではない別の生物になる。
本来、ヒトも日常が大変動すれば、滅びるか、ヒトで無いものに変化するしかない。
今までそうであったように。これからも発生と断絶を限りなく明滅させながら進む。
日常に埋もれたままであれば、そこに変化は見えない。
そこには、選ぶものと選ばなかったもの、その違いがあるだけ。


父さんは、人を人でないものに変えても、人類を生き延びさせる為の研究をしていたんだ。






僕らは、街を出る。街を出るよ、父さん。


フェンスを乗り越え、僕らは山道を歩き続けた。急に森がなくなるとそこから先は岩が割れたガラ場だった。
おかしい。これは急激な気温の日内変動のある場所でしか存在しないはずだ。
岩の割れ目に染み込んだ僅かな水が氷となって膨張し、岩を砕くのだ。こんな里山で何故そんな事が起きる。
山の頂に近づく。そこに立った僕は唖然として声も出なかった。
この間、アスカが言ったとおりだった。そこから先には何もなかった。何一つ。
遥か彼方にかすむ山に続く見渡す限りの荒涼とした平らな大地。緑のひとかけらすら見いだせない灰色と赤の大地。
遥か西の地平線まで、沙漠が僕らの目の前全てに広がっていた。

思わず、都市のほうを振り返った。焼却場のあの炎さえもが、帰て来いと呼んでいるようだった。
アスカは泣きそうな顔をしたまま、でも決して街を振り返ろうとはしなかった。
そして、急に腕で目を擦り上げてしっかりとした顔つきになった。眉を吊り上げ叫んだ。


「さあっ!前に進めッ!」

「アスカ。生きて帰れないかもしれないよ。本当に僕に付いて来ていいの?」

「あんた、男でしょう。女の子が決心して付いて来てんのに、今更なにびびってるのよ。」


そういうと、君は不敵に笑ったんだったね。


「さよなら、父さん。」


その炎に向かって呟き、僕はアスカの手を取って歩き出した。たった一人、この世界にたった一人のアスカ。
たった一人だけでいい。僕はそれだけで踏み出せる。
僕は、父さんの手の中で保護されて生きる事を拒絶した。人の形骸だけをここにとどめる事を選択しなかった。

父さん、僕は。

人ではないものになる事を、選ばない。








――乾ききった荒れ野を蠢いていくものがある。

――互いに庇いあいながら、それでも歩を進めていくものがいる。



激しい西からの風が彼らに向かい吹き付ける。固く結んだ口の中があっという間に砂だらけになった。
目蓋の裏がざらざらになって、薄目でも開けていられない。僕はアスカを抱きかかえ、毛布を被り
しっかりとその裾を握り締めて、岩の陰にしゃがみこんだ。風の合間を縫ってまた次の岩まで進む。
一箇所でじっとしていればたちまち埋もれてしまう。



「行ってしまうわ。」

「ああ。」

「貴方の愛した息子が、貴方の愛した娘が。」

「問題ない。」

「そう。」

「あれは、俺の息子だ。俺の娘だ。例え…」


ゲンドウは一息ついて、誰かの名を呼んだ。そしてさらに口にした。


「一度捨てた息子であり、ユイを裏切り、あれの親友との間に作った不義の子だったとしても。」



ある個体の独立自律心の高さは驚嘆に値する。が、それだけが種を救う手段ではない。
それのみが正しい選択であるわけではない。
個体が生き延びても大部分が死滅することは種を救ったとは言えない。
ヒト。高度な知性と精神活動を伴う存在。知性や人格を放棄してまで生きて種として生き延びたと言えるだろうか。
その状態から元のレベルまで復帰して初めて生き延びたといえるのではないか。
自由、という概念もまた至高の存在ではない。自由という概念を真に知っているヒトの方が既に少ないのだ。
高貴な人格や、崇高な理性の存在、豊かな感受性が全ての人間を救うわけではない。
それと共にあっては到底生きて行けぬ世界もまた多く存在する。
そのために幸福の地に辿り着けない人間が多くいるのだ。愚かな方が賢明とされる事もある。

だが、正解はひとつでは無い。世界は一つではない。私の息子と、わたしの娘は、だからこそ生きてこれた。
真実が一つだと思う事こそが、この多彩で多様な世界を滅ぼすのだ。私もそれを知っている。


一人は辛うじて得た瓜を割り、もう一人に手渡す。それを渡された者もそれを割る。
瓜がなくなっても次の人間に手渡され続ける。
瓜の食い方一つで、人を人は殺す。それを愚かだというのか。
あらゆる決断はそれと同じレベルで下され続けているではないか。
どこからが、くだらない事だと言えるのか。どこからをもってケダモノと人を分かつのか。
瓜は存在すればいつでも割られて次の人間に手渡される。その集団では当たり前のこととして。
1個の瓜は限りなく分割されていく。その瓜は万となり億となる。

だが我々はハム一枚のために人が死ぬ世界を歩いてきたではないか。
自分の薄っぺらな感情と、利益を満たすために、安住できた国、愛する父母を、大切な友人を捨てた。
世界を破滅の淵までに追い込んだ。互いの国民をけしかけ、殺し合わせた。
何を得るために数十万の軍を数百万の国民を蟻のように捻り潰したのか。

他人の記憶と融合される恐怖、記憶の混乱が生み出す焦燥。優しく、気づかないままでの洗脳が進む。
自分が無価値だと、必要とされないと、突然告げられた時の絶望。
その全てを癒してくれた者のために、唯一この世界でおまえを愛した者の為、おまえは今手にしている全てを捧げた。
選択する事を誰が許し、誰がその罪を赦したのか。その血潮は何によって贖われるのか。


――それを決めるのはおまえ自身しかいないのだ。


そうして、やっと辿り着いた港で。その時、錨は引き抜かれる。
さぁ、その海風に向けて両腕を広げ、お前たちの旗を高く掲げるがいい。


――少年は少年で無いものに。
――少女は少女で無いものに。


進め。世界は崩壊し、また別の命が降りてくるだろう。私はそれを見届ける。その為に存在する。
柳絮は風に舞い、おまえ達は錨を繋ぐ鎖を巻き上げる。
雪のように降り注ぐ柳の綿毛。血飛沫のように降り注ぐ百日紅の花弁。そこでおまえたちが見るもの。
統合された、おまえたちの生きる世界が広がっていることだろう。

息子よ。娘よ。旅立ちだ。お前たちの旅立ちの日だ。

私はそのことを祝福しよう。




「アスカ、大丈夫かい?」

「ええ、まだ大丈夫。シンジこそ。足が痛まない?堪えられなくなったら我慢しないで直ぐに言うのよ。」

「うん。アスカこそ、無理に頑張るなよ。」

「まったくもう、直ぐに男ぶるんだから。あなたはまだ男の子なんだから無理しなくていいのよっ。」

「そんなこと…アスカもお姉さんぶるなよなっ。」



少年の足は銃弾に傷付いていた。少女の手と腕には、古い血の滲んだ包帯が巻きつけられていた。
共に骨は達していなかったが、街を逃げ出したふたりの前に出現した、半沙漠の荒れ野を行くには重い傷だった。
ふたりは軍用毛布をかぶって風と砂埃を避け、枯れ枝の杖を持ち、支えあい、抱き合って進み続けた。
時たま生えている肉厚の乾燥帯性植物の葉や果実で僅かに渇きを癒し分かち合って食べて耐えた。
熱波の昼は穴をほって眠り、極寒の夜を徹し、歩を進ませ続けた。


約束の地を抜け出したふたりだった。
そこにいれば全てが保証されていた。全ての事象は自らの傍らを過ぎていくだけだった。
目を瞑っていさえすればよかった。何も聞く必要はなかった。
苦しみも、不安も無く暮らせる街だった。ただ家畜である事さえ忘れていればよかったのだった。
生きていさえすれば全ては与えられるのだ。

社会に従わないUndergroundさえそこには用意されていた。
学生たちの無意味な抗議行動や焚書、議論ごっこや犯罪ごっこまで揃っていた。
そこは、既に人間の生きていく場所ではないとふたりは思ったのだった。ここは人間を、飼う場所だと。
そこは人間という種を保存するための揺りかごであり、培養地でだった。
激減した人間を純粋に残すために効率よく仕組まれた畑だった。
どのような要因が人の精神活性を低下させるのか。低下した也に生き続けるにはどうしたらいいのか。
不満を残さず、生物が持つ荒々しいあらゆる欲望だけをコントロールできるのか。
異常心理、殺人や放火、麻薬や性犯罪を、社会から取り除けるのか、それは必要とされるものなのか。
どのような負担要因を、老化や障害、集団暴力や不慮の事故までを取り除く際、どの因子を除いても
構わないのかをDNAレベルから、社会科学的推論までを、調査実験するための都市型施設だったのだ。
その施設も、次第に数を減らしていった。管理し、温室化が進めば進むほど人は人を求めなくなる。
人は人を育てる事に興味を失っていく。人は人と交わらなくなる。個体化していく。
図書館にも、学校にも、あらゆる知的好奇心を刺激する施設を幾ら揃えてみても。

そうまでしても、次第に人間を人間たらしめていた知性と理性と情感は、ヤスリにかけられたように失われていく。




「結局、あなたは子供達に未来を託したというわけですか。」

「未来を託したのか、地獄に投じたのかは、先になって見なければわからん。
あの娘の事一つをとっても、子供等が真実を知る事は永遠にないのだから。」

「これから先、私たちがどこまで見守っていけるのかしら。」

「問題なかろう。親というものは杠(ユズリハ)の木の様に全てを子供に譲って去っていく者でしかない。
受け取るも捨てるも、それは子ども自身が自分で決めるしかないことなのだ。」




灼熱の太陽が容赦なく僕とアスカに照りつける。
この完全に平坦で乾燥した、真っ白い沙漠地帯は塩分が岩のように固く結晶している。
昼の間身を隠す穴を掘る事も出来ない。
もし仮に塩の結晶を破壊出来たとしても、その下には薄い花崗岩の岩盤が重なり合っている。
ただ一本の植物も芽を出せない不毛の土地だ。
そこは人間の肉体が耐えられる温度を遥かに越えた場所。昼間であっても進むしかない。

砂の砂漠では足を取られ、石の砂漠ではほんの一時の雨で濁流に呑まれかけたことともある。
何度も襲ってくる嵐の中を庇いあい進む。身体が凍りつきそうな夜の嵐。
熱波の中で唇を湿らす僅かな水を分け合う。


「この間の湧水は奇跡みたいなとこだったよね。」

「そうだね、水筒にあんなに水を詰め込めたし。」

「美味しい柔らかな葉っぱも一杯。」

「小鳥も随分捕まえたし。」

「あそこにずっといてもよかったわね。」

「雨水のたまった最後の泉だ、もうなくなっているよ。」

「そうよね。」

「そうだよ。」

「あたし達――」

「馬鹿なことしてるのかな。」

「そうかもね。でも戻らないわよ。」


沙漠の旅。打ち付ける雹に地に倒れ伏した事もあった。地を掘り、巨大な水の球根を得たこともあった。
野鼠の首を食いちぎり、その血を分け合い啜ったことも。蟻の巣をひっくり返し蛹や幼虫を夢中で頬張った。
あるときは僕を肩に引きずるようにアスカが進んだ。あるときは太陽に盲いたアスカの手を握りながら歩いた。
どこまでも続く沙漠に、ただ二人の影が長く尾を引く。
ある時は熱射病に身体を震わせ、ある時は泥水をすすり。一歩一歩足を引きずり進んでいく。
毛布は破れ、服は垢と土とに塗れ、一塊のぼろのようになっても、少しづつ、前に向かっていく。


「シンジ、あたし、もう――駄目――みたい。」


ぐったりと膝を突いたアスカの手を引っ張る。腫れあがった君の眼はもう焦点を結ばない。
日焼けを通り越し、彼女の腕はパンパンに腫れ、水泡が何度も膨れ火傷の跡のようなケロイドになっていた。
それでも美しかった君の手を引っぱり続ける。地を引きずっていく。手を離したらアスカはここで死ぬ。
そうしたら、自分ももう立ち上がれないかも知れない。ふたりだから進んでいけるんだ。
こんな所で死なせはしない。僕は必ず君を次の地平まで連れて行くんだ。


「――もう、ちょっと頑張って。さぁ、あの砂丘を、もうひとつだけ越えよう。」


その時、小さな綿の様なものが僕の眼前を幾つも飛んでいくのに気づいた。
ふたりの顔を覆っていた毛布をまくり、真っ青な空を見上げる。
限りない、小さな綿毛が、空を覆うほどに幾つも幾つも群れをなして西風に吹かれていく。

――これは?植物の綿毛?

毛布から飛び出し、アスカをそこにうずくまらせ、急な砂丘の頂に駆けのぼった。
足裏の感触が固い。これは砂丘じゃない。大地だ。そこに溜まった砂も湿り気を含んでいる。

だしぬけに眼の前一面に真っ青な水と空、大きな白雲が広がった。
その遥か向こうには雪を戴く高山が微かに望まれた。
緑色の柳に取り囲まれた運河を舟が行き交う。石を積み重ねた家と、市場が混在した街がそこにあった。
幻想かっ、蜃気楼かっ。
いや、街だ。人の住む街だ。
煮炊きと、お湯の煙。僕らはとうとうあの街から、惑いと悪魔の森から抜け出せたんだ。

やったっ、やったぞっ!

僕は馬鹿みたいに繰り返した。無謀としか思えなかった旅。僕らは多分死ぬだろうと思っていた。
互いの命を、多分賭けていた。いや、言い方を代えれば。


「アスカッ、アスカッ。街があったっ。大きな湖がある街だよっ。」


荒れ野に倒れ伏したままだった少女が、僕の叫び声に顔を上げた。汚れた頬。固くなった髪。ひび割れた唇。
駆け戻って、両の腕にアスカを抱き上げ、僕は全力で砂丘を駆け上がった。
もう大事にする必要も無い残り僅かな水を口に含み、アスカの喉に流し込む。
腫れた眼を舐め取る。沙漠の塩の味。僕の唾液がアスカの眼に浸透する。
睫に白く固まった塩の結晶をこそぎ取る。潤った少女の目がかすかに開く。


「蒼い。どこまでも遠く広がる、蒼い世界の姿。・・・なんて綺麗な世界。」


アスカの指が、僕の顔をまさぐる。僅かに開いた目蓋から湖水と同じ色がのぞいている。
その指を僕の涙が濡らす。止まらなかった。どこにこんなに水分が残ってたんだろう。

その街から吹き上げられてくる、純白の綿毛――柳絮。
ふたりを包むように突然砂漠が終わっていた。
僕らが立っている高台全体から、見渡す限りの草原が湖まで続き、街と湖水の岸辺を取り囲んでいる。
飛び交う純白の柳絮が湖からの風を受け、さらに遠くにまで青空に高く高く飛んでいく。
神の座のような白い山々が、群青色を背景に彼方にそびえている。

柳絮が飛び交う。僕はその純白の繊維を手に握りしめた。
アスカはその豊かな水分を含んだ風に向かって深呼吸した。
僕もそれに倣った。ああ、水の匂い。懐かしい植物の薫り。生物が棲んでいける世界の匂いだ。


「シンジ。シンジ、どこ。」

「ここだよ、君を抱いているのが僕だよ。」


手繰り寄せるようにしてアスカの指がまた僕を引き寄せた。


「あたしたち――やっと解き放たれたんだね。やっと二人で生きていける場所へ――来たのね。」

「そうだよっ、そうだよアスカ。行こう。僕らの街へ。みどりが潤う街へ。柳絮が飛び交う街へ。」


濡れた頬をこすり付けあった。
そして、アスカの手に僅かな柳絮を載せる。固くなり、ひび割れたアスカの手のひらがそれを一旦つかむ。
再び手を開くと、その小さく丸まった綿の玉は直ぐ飛び立って行った。
固く抱き合う。やっと手にした自由。新しい囚われない心。
ここは新たな旅立ちの場所。柳絮飛び交う別れの場所。別れの場所は旅立ちの場所に他ならない。
渡ってきた東の広大な沙漠地帯を振り返る。
そこには奇跡の様に雲が沸き立っていて、地平線はその為にぼんやりと霞んで見えなかった。

遥か東の彼方。ふと、父さんは僕を見捨てたのではなく、あの都市から解き放してくれたのかもしれないと思う。
父さんを理解する事は出来なかったけれど、きっと父さんにも何か大きな目的があったんだろうと思う。


「ありがとう、父さん。」


――父さんが居たから今僕はここにいる。アスカもここにいる。アスカを僕だけのものとして抱きしめる事ができる。
この美しい場所で、ふたりでいられることを、父さんに感謝したい。いつかは分かり合えるかもしれない。
あなたのやろうとしていたことも理解できるかもしれない。ただ今は、僕は僕自身の信じる方向へ進みます。
例えその道があなたと永遠に離れていく道であったとしても。

アスカを抱き上げたまま、その街へと草原の斜面を小走りに駆け降りていく。
近づくにつれて、街を囲む石垣や、漆喰に塗られた壁、湖に突き出した堤、港に泊まっている何隻もの船の姿が見える。
行きかう人々。あの街とは違う、生活の匂いがする。小麦畑。トウモロコシと大豆の畑。真っ赤なトマト。


「ああ、ここでは人間が自分で使うものを自分で作っているのね。」

「寄生者ではなく、一緒に生きていける世界なんだね。」


僕は父さんを捨て、アスカを連れて脱出した。その事が正しかったかどうか、それを確かめに行こう。
あの船の、錨を上げよう。新たな地平を目指し。君と幸せに暮らせる約束の土地まで。さらに旅を続けよう。

梅花は雨に柳絮は風に。

僕とアスカとはもう一度、求めあい、固く結ばれあうだろう。
新たな男として、新たな女として。
新たな生命を育み、更に向こうへ。遥か彼方へと出港するために帆を張ろう。


「錨を上げよう。僕らも行こう。もっと遠くまで。」


街の前でアスカは降ろしてくれるように頼み、そこに座って、流れる用水路で櫛を濡らして髪を梳いた。
顔を洗って、背負い袋の中からぼろ布を出して顔を洗った。
僕も顔を洗い、長く伸びた髪を縛り、髭を剃り、新しい布をまとい、身支度を整えた。


「さぁ、行こう、アスカ。」


君は、何も言わないまま立ち上がり、僕と唇をあわせた。









抜錨10 『柳絮』 the last round. 10-Oct.-2004


ホームページに戻る抜錨9 黎明へ投稿インデックスへ感想くれるとうれしいな
Valid HTML 4.01!